コロナ禍の自己管理(仕事面)

お題「#この1年の変化」

あらゆる場面で新型コロナウイルス感染症の影響を受けたこの一年、改めて自己管理能力の低さを痛感した。

夏休みの宿題は、24時間テレビが放送される時期からとりあえずやらなければならないという意識を抱きつつも*1手につかず、焦燥感に身をすり減らしながら最終日を迎え、数日は徹夜で宿題に取り組むような生徒だったことを思い出しても*2、とにかく昔から自己管理能力には難を抱えていた。

 

大人になったら、当然のように自己管理が求められる。

自己管理能力の低さを痛感しつつ、そのディスアドバンテージを乗り越えるための手がかり的なものをつかんだ一年でもあった。

自己管理能力の低さは、仕事でも私生活でも、このコロナ禍で露呈した。

今回は仕事面での気づきに触れたい。

 

緊急事態宣言下では外出自粛が呼びかけられ、私の職場でも在宅勤務が推奨された。

在宅勤務では、基本的に職場の人とのやりとりはなく、一人自宅にこもって仕事をこなすことになる。

一応、仕事ではあるので、だらだら一日を過ごしてていいわけでもなく、在宅勤務中にはどのような作業をしたかの報告は求められる。

元々引きこもり体質な私にとっては、これはとてもうれしい機会のように思えた。

しかし、この在宅勤務においては、オフィスに出勤するときよりも自己管理が必要となる。というより、そのパフォーマンスに自己管理能力が大きく影響を与えるように思える。つまりは、私の苦手な部分に向き合わなければならない機会でもあった。

そんな在宅勤務において、私にとってはよかった点、悪かった点の双方があったので、以下のとおりまとめておきたい。

 

1、よかった点

端的に言えば、仕事を効率的なジグソーパズルの組み立てのようにこなせるようになった点である。

与えられた仕事を大きな絵ととらえ、その仕事を遂行する上での一つ一つの作業をジグソーパズルでいうところのピースのように「to do」に分解し、効率的に組み立てていく、そういった仕事の進め方の総論的な部分に意識を向けることができたことが、コロナ禍での成果と考える。

一つ一つのピースへの分解作業は、いわば仕事の段取りにあたる。

在宅勤務においては、基本的に機密情報を持ち帰ることはできず、できる業務はおのずと制限される。

そこで、普段以上に業務を一つ一つのピースに分解し、在宅勤務でできること、できないことを整理する意欲をかき立てるものとなった*3

仕事の分解にあたって、ジグソーパズルの場合、直線の辺があるピースが外枠になるため、それを優先的に探し、枠を固めたうえで作業をしていく恰好となる。そのあとは、色、柄、ピースの位置から大体の位置を割り出し、当て込んでいく作業が定石となろうかと思う。

仕事についても、あらかじめどの作業をこなしていくかの段取りを組み立てることが必要だ。

どのピースをどの辺に敷き詰めればいいかは、緊急度、重要度を元に考えていけばいいという話を過去の研修で聞いたことがあるが、緊急度、重要度に加えて、在宅勤務でできる業務かどうかという指標がここで追加されたことで、パズルの位置のあたりをつけやすくなった。

業務をこなすうえでは、一度付けたあたりに従わざるを得なかったが、それ自体が仕事を効率化する大きな要素になったと思う。

 新型コロナウイルス感染症が流行する前も、あらかじめ段取りを組んだうえで作業に当たるという視点は持てていたつもりだったが、その段取りを自らの裁量で覆すことができる状況であったがゆえに、思い通りに仕事が進まない場面がしばしばあった。 

その点、在宅勤務においては、その裁量が大きく狭まり、段取りに忠実な業務遂行を余儀なくされ、ひいては生産性の向上につながったように思う*4

 

こうした仕事のジグソーパズル化は、仕事がどこまで進んだかも明確になるため、報告時にも都合がよく、いろんな意味で私にとって大きな意味を持つものだったと思う。

 

2,悪かった点

悪かった点としては、職住の境界があいまいになったことだ。

元々仕事とプライベートははっきり区別しており、仕事は一切家に持ち込まないスタイルを貫いていたのだが、それが崩れた。

朝眠い目をこすりながら、直食を食べ、身支度をし、駅まで歩き、電車に乗り…というプロセスを経て、始業時間には一斉に仕事に着手する周りに流されながら、一応は仕事のスイッチがはいっていた。

どうやらオフィスに入ると仕事スイッチに切り替わる習慣が身体に染み込まれていたのだろう。 

在宅勤務下では、起床から通勤までの一連の流れはなくなり、始業時間になったら、自らの意志で仕事モードに入らなければならない。

周りの波に乗ることができない状況では、自らの起動力が頼みの綱なわけだが、これがなんとも苦痛で、まるで冬の寒冷地の自動車のごとく、エンジンが入るまで時間を要した。

仕事に本腰をいれなければいけない場面で、なかなか力を発揮できないのは私にとっては大きな苦痛だった。

 

前述の良かった点、悪かった点、いずれにしても、自己管理能力の低さに通ずる話ではあるのだが、そんな自らの弱みにどう向き合っていくべきかに気づかされた1年であったと思う。

*1:サライ症候群という言葉があるらしい。https://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%82%A4%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4

*2:根が真面目な小心者なので、無理してでもやり遂げてはいた

*3:というよりそうせざるをえなかった。

*4:裁量の狭まりだけでなく、在宅勤務下でが横やりの仕事も基本的にはいってこなかったことも大きい

「告白」と事実の物語化

今週のお題「告白します」

「告白」とは、「 秘密にしていたことや心の中で思っていたことを、ありのまま打ち明けること。また、その言葉。「罪を告白する」」*1とされている。

「罪を告白する」のほかにも「愛を告白する」、「過去を告白する」といった形で使われている言葉だが、いずれも語られる対象がありのままの思いであることがその要件となっている。

では、ありのままに打ち明けるとはどういうことか。

思うに、「事実」をそのまま語ろうとすることとは区別される。

というのも、何かを語るとき、私たちは「事実」の物語化を行っているからだ。

「事実」を「事実」として他者に認識させるためには、「事実」たらしめるだけの説得力が必要だ。「事実」そのものは過去の中に消え去っており、それが「事実」と認識されるためには、語られた「事実」が一貫性、整合性など具備した説得力のあるものでなければならない。

その説得力を持たせるための技巧が物語化であって、私が相手に何を伝えたいか、あるいはどう思われたいかというところから逆算して、「事実」の取捨選択や関連付けを行い、偶然性の連続である「事実」を必然性の伴った物語にしたためている。

これは語る相手がいなくとも同様で、何かを書き記した時、過去の自分の行動を物語化し、事実として固定化させるからこそ、過去に対して今の自分が何らかの評価を下せるものとなる。*2

このようなプロセスを経た「告白」は、うちに潜んでいたもやもやを排泄しカタルシス効果を得たり、物事を構造化することで何らかの教訓を得られるといった正の側面がある。さらに、技巧に優れていれば、文学作品として高い価値をもつものにもなりうる。

 

一方で、物語化のプロセスがナルシスティックな自意識とも容易にむすびつくことには留意しておく必要があるのではないかと思う。

 

先日読んだ「僕は模造人間」に以下の表現があった。

 

人生には転機があるという考え方は自分の過去を『英雄の生涯』なる物語に仕立てて陶酔することに多かれ少なかれ魅惑されている人の癖である。(「僕は模造人間」170ページ)

 

f-boby.hatenablog.com

 

前述したように、事実の物語化は「転機」に限らず、過去を語ろうとするあらゆるプロセスに内在する。

その事実を解釈をする前提に、自らを正義のヒーロー、逆境を乗り越えたファイター、悲劇のヒロインなどなど、都合よくいろいろなものにしたてあげようとする心理があるように思う*3が、そういう心性には自覚的である必要がある*4

 

「告白」の正の効用を最大限発揮させつつ、物語化している己にも自覚的でありたい。

*1:goo国語辞書より引用

*2:たとえば、罪を告白し懺悔する場合、懺悔に足る事実を物語化し、それを事実として信じ込むことができるからこそ、威力を発揮する。

*3:この感覚は、思春期に自分語りをして火傷した思い出に由来している。自分がどうみられたいかに引っ張られ、過去を誇張しまくった時期があったのだが、おそらくそうした言動の虚は周りに見透かされていて、今でも思い出すたびにその記憶をかき消したくなる。

*4:一度「告白」し、物語の主人公になった途端、暴走は止まらなくなる。「告白」とは、そういう暴走に人を走らせる詩的な魔力があるのではないかとすら思う。

「ストリートレベルの行政職員」のジレンマから生じる差別問題

以下の記事を読み、SNSでも話題になっていたため、考えを整理しておきたい。

 

https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_6022839dc5b6d78d4449d1f4

 

日本人とバハマ人との間に生まれたドレッドヘアの男性が警察官から職務質問を受ける様子を撮影した動画が取り上げられており、その差別性に言及している。  

この問題は、いわゆる「ストリートレベルの行政職員」のジレンマに当たると思う。

「ストリートレベルの行政職員」とは、職務質問を行う警察官や、市役所で働くケースワーカーなど、対象者と直接接し、職務をこなす行政の現場職員をいう。

直接的な対人業務において、現場職員はの人的・時間的な資源制約を勘案しつつ、「エネルギー振り分けの裁量」、「法適用の裁量」を働かせることになる。

 

一方で、 行政組織は指揮命令系統が一元化がされた官僚制で成り立っており、属人的判断は排除される。

その中では、前述の現場職員の裁量自体も統制の対象であるべきところ、なかなかそれが難しいというジレンマだ。

組織が現場の仕事をどう評価するかが、現場に大きな影響を与えることととなる。

こうした裁量は、一市民の目線で言えば非常に影響力が大きいものである。

 

さて、記事の内容に当てはめれば、動画の男性は、対応した警官の職務に対し、不当性を感じている。

 

こいつこんな髪してるからどうせ(薬物を)持ってんだろうなって思ったんでしょ 

 

男性がこのような発言をしていることから、特定の人種や髪型を薬物所持の疑いがある者に類型化し、 職務質問の対象としているのではないかと不信感を抱いている。

警察が組織として人種や髪型などで怪しい人物像を類型化し、それを元に取り締まりを行った場合、差別の謗りは免れない。*1

一方で、現場の警察官としては、経験則や対象者の挙動から、 声掛けを行っている。*2

こうした声掛けの仕方は、特定の属性に声かけをしまくるような差別的なものにもつながりうる。*3

 

職員が個人的に、黒人でドレッドヘアをした男性にドラッグ所持者が多いという偏見を形成するに足る経験則を有していた場合、そうした人に狙いを定めて観察し、少しでも挙動の怪しさ等をつかみ取った途端声をかけるといったことが行われうるわけだ。

 

私の経験則として別にドレッドヘアーが悪いわけではない、悪いわけではないですけど、ドレッドヘアー、おしゃれな方で結構薬物を持っている方が私の経験上今まで多かった

 

記事の警察官の言葉であるが、先に触れた「エネルギー振り分けの裁量」が与えられており、組織が薬物所持者の検挙数の多さを現場の評価対象とする場合、現場からしたら、経験則を生かすのも当然だろう。*4

 

今回の記事をめぐっては、様々な意見が挙げられているが、動画で晒されることが現場への萎縮につながることは懸念される。

今回のような動画を受け、特定の類型に対する差別につながらないようにと配慮することが、結果的に必要以上に声掛けをためらうことにつながるのは適切な形ではない。

ストリートレベルの行政職員への圧力が、現場の萎縮につながり、適正な治安維持をゆがめる可能性があることには留意しておく必要がある。

 

外国人は年々増えており、多様性のある社会が求められている。

「ストリートレベルの行政職員」のジレンマを、人種問題と絡めてどのように克服していくべきなのか、これから問われている。

*1:仮に動画の男性のような人に薬物所持者が多いということが統計的事実であろうと、レイシャルプロファイリングに当たるのだろう。また、特定の属性に薬物所持者が多いことについて、警察官の職務質問の対象がその属性に偏っていないかという点にも留意する必要がある。

*2:記事には、「警察官は異常な挙動や周囲の事情から合理的に判断」 とあるが、事実上厳格な運用はされていないように見える。ここにストリートレベルの行政職員の特徴が表れている。

*3:警察からの声掛けということでいえば、私も中高生時代、夜に自転車を走らせていると警官にしょっちゅう声をかけられ防犯登録の確認をさせられたことを思い出す。警察の威圧的態度に嫌な思いをしつつも、他方で盗まれた自転車が返ってきた経験もあり、不快な声掛けの効果を実感した。

*4:とはいえ何も悪いことをしていないのに声をかけられる側が納得するかは別で、「嫌なら日本から出ていけ」というのはあんまりだ。

バレンタインデーの社会的機能

今週のお題「チョコレート」

バレンタインデー、それは年に一度、 女性が思いを告げることができる日。
女性から男性に想いを伝えることが忌避されるようなジェンダー規範が強かった時代、女性の想いを行動にかえるきっかけを与えるものとして、機能していたのだろう。
 
10代の頃、バレンタインデーで取りざたされるチョコレートといえば、「本命チョコ」だった。
そこでは異性からモテる者、モテない者が可視化され、後者であった私にとってはどこか辛いイベントであった。
酸っぱい葡萄的な思いをこじらせ、製菓業界の戦略にのせらるものかと斜に構えたことも懐かしい。
 
前述の文脈でのチョコレートとは別に、「義理チョコ」という言葉もある。
好意をつたえるきっかけとしてではなく、日ごろの感謝を伝えるためにチョコレートを渡すものだ。
 
友チョコ」という言葉もあるが、時代にあわせてつつ、バレンタインデーにおけるチョコレートの位置づけが少しづつ変容し、その慣習が生き伸び続けているところに、製菓業界の強かさも感じる。
 
今の私にとってのバレンダインデー*1は、儀礼的な感謝を通して人間関係のメンテナンスを行う日である一方で、規範化され贈与の圧力にさらされる日という複雑な位置づけである
 
人間関係のメンテナンスとしての機会としては、チョコレートを渡す過程で、コミュニケーションが生まれ、心理的距離が縮まり、人間関係の円滑化につながるものとして機能している。
普段事務的にしか関わらない人とも、チョコレートを介して会話のきっかけ、感情の交流が生まれ、コミュニケーションコストが低減するという効果も期待される。
 
一方で、儀礼としての性格が強まり、規範化された贈与の圧力として機能し、事務的な関わりに収斂している面もある。
儀礼として規範化された以上、バレンタインデーに乗じず、チョコレートを渡さないことが、その規範の逸脱ととらえられ、人間関係に角が立ちはしないかと、準備する負担を感じながらも渋々チョコレートを渡す人も少なくないだろう。
特に、多くの人がその規範に無自覚に乗っかっている集団であれば、そこからの逸脱は非常に難しくなる。
 
もらう男性側も、返報性の心理*2が働き、手放しに喜べる機会でもないように思う。一か月後に、ホワイトデーという返報性の規範にさらされる日が丁寧に用意されており、もらったチョコレートに見合ったものを渡せるよう、あれこれ気をもむことになる。
 
きっとこの儀礼の規範化に息苦しさを感じる人が増えてきたのだろう。
また、ジェンダー規範から自由になることへの要請が求められている時代にも、こうした習慣はそぐわない。
 
とはいえ、こうした一度こういう規範が生まれてしまった以上、それを打破するのは大変だ。
 
ジェンダー規範の逸脱へのきっかけを与える日として機能していたバレンタインデーが、新たな儀礼を生む規範を生み出しているのは興味深い。
その規範を打ち破るのは、また新たな規範なのだろうか*3
 
一方、コロナ禍で外出したり人との接触を控えるようお触れが出ているが、これが規範を打破するための、今回ならではの大義になる可能性はあるだろう。

*1:もっぱら「義理チョコ」に限定される。

*2:相手からなにかしてもらったら、お返しをしなければならないという思いが働く心理現象

*3:義理チョコを禁止する企業もあるようだ。

森氏の東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長辞任によせての雑感

 

私にとって、昔から森氏の印象はあまりよくなった。
 
森氏が首相だったのは20年前。
有事の報告を受けたにもかかわらず、ゴルフを楽しんでいたことでバッシングを受け、辞任に追い込まれたという記憶が朧気にある。
 
改めて事故の記事を読むと、アメリカ海軍の原子力潜水艦の不注意で日本の漁業練習船に衝突したというもので、 当時は私自身が反米感情を燃やしていた時期だったからか、とにかく森元首相の印象が悪い。
そんな氏を当時の私は感覚的に「敵」とみなしていた。  
 
そして今回は失言だ。
JOCの臨時評議会で女性蔑視ともとれる発言をし、またもやバッシングを受け、辞任にいたった。
 
オリンピックを間近に控えての組織委員会の要職の辞任といえば、2019年の大河ドラマ「いだてん!」の下期の主人公的存在だった、田畑政治を思い出す。
 
物語の終盤、1964年の2年前、ジャカルタアジア大会で、開催国のインドネシアが政治的に対立する国の選手の参加を事実上拒否した。
現地には、東京五輪組織委員会の事務総長を務めていた田畑政治率いる日本選手団がおり、大会に出場するかの決断を迫られる。
 
時は東西冷戦時代で、 世界的な政治問題がスポーツの世界を浸食していた。
出場してもしなくても、その行動が政治的に大きな影響を与えるものとなる。
 
結局大会の出場に踏み切ったわけだが、帰国後、有力政治家や国民から叩かれ、あえなく田畑は辞任に追い込まれた。
 
 
田畑は政治的に敗北した。  
  
カール・シュミットは、政治の本質を「敵と友」に分けることに見出している。
これはあらゆる抽象的な言葉について、その本質を突き詰めたとき、究極的な区別に達するとした発想から導き出されている。
政治以外の言葉で言えば、例えば「道徳」であれば「善と悪」、経済であれば「利益と損失」、美学であれば「美と醜」といった具合だ。
 
ここで、「敵と友」は「善と悪」、「利益と損失」、「美と醜」から切り離されたものとしてとらえられ、それを政治的なものととらえる。
 
こういった、政治のとらえ方は、普遍的、絶対的な観念と政治を当然に結びつけず、そこで問題とされる事柄を相対化する意義がある。
 
 前述のいだてんのシーンからは、政治的中立性の確保がオリンピックの一理念としてあ置かれている一方で、その理念を守りつつオリンピックの開催に動いていくためには、「敵と友」をめぐる政治的闘争のフィールドで勝ち残っていかなければならないことが示唆されている。
その点、田畑と対立していた政界の寝業師、川島は圧倒的に政治に長けていた。  
 
 
さて、現代に戻り、森氏は多方面からぶったたかれている。
今回のような形で辞任に追い込まれたことは、まさに政治的敗北を意味するだろう。
 
現代にあっては、「男女平等」や「LGBTの権利尊重」などが、その扱いによって「敵と友」と大きく左右するキーワードとなっていることに加え、大会の基本コンセプトに「多様性と調和」を掲げ、ジェンダーの平等を基本的原則の一つとしていることからも、森氏の個人的なジェンダーに対する思い入れに関わらず、会長という立場からして、ジェンダーをめぐる発言にはひときわ敏感であるべきだった。
 
森氏のジェンダーに対する鈍感さによって、オリンピック自体が「敵と友」の世界に飲み込まれ、組織委員会へのクレームやボランティアの辞退が相次ぎ、運営にも支障をきたす結果となった。
そんな今回の経過を見て、やっぱり森氏は会長としてふさわしくなかったんだろうと思う。
一方で森氏を社会の「敵」に落とし込み、いくらブッ叩いても構わないという空気感が生まれることは一つの脅威だ。
ここは森氏を「敵と友」をめぐるゲームの敗北者という程度の位置づけで、冷静にとらえたいと思う。

マウンテイングとは:「意識のリボン」を読んで

「意識のリボン」を読んだ。
 
 
8つの短編から成り、全体を通して、小説というよりエッセーのような印象を受けた。
多くの話は、主人公の見た世界を、主人公の視点でひたすら書き連ねられているというもの。
いずれの話も著者本人の体験をそのまま書き綴ったのではないかと思わせるくらいのリアルさがあった。
そのリアルさに加え、その言葉遣いが現代的、平易でありながら、心情の描写するための言葉を丁寧に紡ぎだしているように感じられた。
 
話の筋としてワクワクするようなものではないが、うちなる心情をどこまでも追求し、えぐり取った表現があちこちに散りばめられてはいる。その表現もどこか上品で、気分が落ちているときでも頭にするするとはいっていくように思った。
  
読んでいて印象的だったシーンは、1つ目の短編小説「岩盤浴にて」で、主人公が主婦二人組の会話を盗み聞きする場面だ。
 
二人組の様子を見ると、話しているのは片方だけで、もう一方はただ聞いているだけ。
話しの内容は、昔買った高額のコートをフリーマーケットで売ったら大幅に値段が落ちたことに対する愚痴だ。
 
それを聞きながら主人公は次のような心情を吐露する。
 
ダウト!愚痴に見せかけた自慢話。高かったコートを安く買いたたかれて腹が立った話をしているように見せかけて、高いコートが買えたり、香港に旅行へ行けたりするほど財力のあったかつての自分を自慢している。さらにコートを買った情報も付け加えて、現在も不自由してないのを暗示している。…聞き役の女性は言葉をかけているが、自慢された上うれにさらに慰めなきゃいけないなんて、大変な手間だ。おとなしく聞いている彼女は、相手の複雑な自慢方法にきづいているだろうか?(17ページ)

 

 
この場面で思い出したのは、少し前にはやった「マウンティング」*1という言葉だ。
 

辞書上では、「自分の方が相手よりも立場が上であること、また優位であることを示そうとする、行為や振る舞いのこと。特に、対人関係において、自分の優位性を示そうと自慢したり、相手を貶したりすることを指す。」*2とされている。

 
主人公は、マウンティングという言葉は使っていないのだが、話し手の行為にマウンティングの要素を感じ取っている。一方、話し手は本当に自慢する意図をもって話しているのか、あるいは聞き手は、その話を自慢話と受け止めているのかはここではわからない。
ある行為をマウンテイングととらえるかは人によって異なるところだ。
 
感覚的には、露骨な自他ともに認める自慢話より、一見すると自慢話ではないものの、複雑で暗示的なマウントをとられたほうが、より胸がざわつく。
 
その理由は、次の2点にあるように思う。
 
1点目は、己の弱点を歪んた形で自覚させられることにある。
前述したように、ある行為をマウンティングととらえるかは人によって異なるところだが、マウンティングは得てして相手から、その意図が不明確な形で発されるものだ。
つまり、自らのフィルターを通してその行為がマウンティングと解釈されることになるのだが、フィルター自体に自らの劣等感やコンプレックスが渦巻いており、ある行為をマウンティングととらえることが、己の弱みが刺激されることにつながる。
その刺激は、相手のマウンティングが正当なものであればあるほど、強烈なものとなるだろう。
 
2点目は、マウンティングを行う相手に対する嫌悪だ。
その嫌悪の二重の構造を持っている。
一般に優位性をひけらかすことは卑しい。
その卑しさを自覚している一方で、優位にたたなければならない自己が浮かび上がってきたとき、遠回しの自慢という行動につながる。
その行動は、優位性をひけらかすことの卑しさもさることながら、卑しさを正面から受け止めることもせずに優位性だけ獲得しようという狡猾さが垣間見え、卑しさと狡猾さの双方が大きな嫌悪につながっていくように思われる。
また、主人公の描写にもあるが、一見自虐的な発言であるがゆえに、会話の表面だけをみるとマウントをとられている側のフォローを要求されているようで、どこまでおぜん立てしなきゃいけないんだととにかく頭にきてしまうだろう。
 
動物のマウンティングは、馬乗りになる形ではっきりと優位性を示す。その点、卑しさを自覚することから逃げた遠回しのマウンティングは、どこか人間らしさを感じるところではあるのだが、あえてそこに、動物に対して使用する語彙をあてはめるセンスのよさが、流行語として流行った理由なのだろうなと思った。

*1:2014年の流行語大賞らしい。

*2:weblio辞書より引用

電車遅延と「うるさい日本の私」

私は通勤で電車を利用している。

先日電車が遅れ、定刻を過ぎての出勤となった。学生時代は遅刻の言い訳ができると、電車の遅延を喜んだものだが、今となっては事情のある遅刻であっても、出勤後、通勤時間は私と同じくらいなのにすでに出勤している人を見ると、どこか申し訳なさを感じてしまう。

 

電車の遅れは人身事故によるものだった。
駅に着いた時、運転再開の見込みはたっていなかったものの、ホームで電車を待っていたら、いつの間にか後ろに列ができ、そこを離れたら運転再開後も中々電車に乗れないのではないかという思いがよぎり、そのまま待つことにした。
 
結果的には、ホームで寒い中1時間近く待たされることとなった。
とにかく寒い日で、肌を刺す冷気に加え、普段から流れているどうでもいい放送に、発車見込みを知らせる放送がかき消され、無性にイライラした。

 

当駅は終日禁煙です。
ホームと電車の間が広く空いておりますのでご注意ください。

 

定例的な放送は、人身事故が起きた場合などの非常事態においても、とめどなく流れ続けていた。駅の職員も 非常事態でてんやわんやだったのだろうか、あまりにどうでもいい放送は、まるで 人のコントロールを失った壊れたスピーカーのようで、狂気を感じた。
 
どうでもいい放送で思い出したのが、「うるさい日本の私」だ。
過去に読んだときに、著者の物事の言語化力と主張に面白さに圧倒されたことを思い出し、再読してみた。
 
 

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改めて読み直したところ、昔ほどの共感はできなかった。
電車の遅延で待たされていることに相まっての狂ったスピーカー的放送へのネガティブな感情がまだ胸の奥でかすかにくすぶっている今ですら、駅の職員に感情移入してしまい、「こんなこと」でいちいち目くじら立てるなんてと呆れ心が勝ってしまった。
 
さて、本の内容にも触れてみたい。
著者は、街のいたるところでスピーカーから流される案内、注意、呼びかけに苦しめる「スピーカー音恐怖症」を患っており、その苦しみを時にクレーマーのようにあちこちで主張するなどの活動をするのだが、なかなか相手にされず途方に暮れる様が本書にえがかている。
活動の様子だけでなく、その機械から発される「善意の言葉」が、多くの人が意にも介されないまま日常に溶け込んでいることについて、日本人独特の音への寛容さが背景にありながら、日本社会が集団の中で個が意見を発することを拒み、個が常に権威から発される言葉に盲従する様を指摘している。
 
大部分が筆者の実践的活動に割かれており、面白いのではあるが、著者の活動には共感はできない。
 
その理由は以下の2点にあるように思う。
 
1点目は、著者が組織の論理、効率性を考慮していないことだ。
ここでいう効率性とは、実行性*1ではなく、実行する場合、しない場合それぞれで発生する不利益を比較した場合、どちらが組織にとっての不利益をおさえることができるかという点に着目するものである。

例えば、今まで善意の配慮の枠でしていたことをやめると、基本的に批判は避けられない。配慮に意味がなかったのかと、問われ続けることになる。続けることが、やめることで発生するクレームをおさえる手段になっているのであれば、放送する主体にとっては、放送を続けることが消極的ではあるが、合理的な選択となる。
 
2点目は、著者が公共の責任を引き受けずに、自らの利益のみを主張している点だ。

例えば、幼稚園のバスから発せられる「左へ曲がります、左へ曲がります。」という音声について、著者は幼稚園に対して文句を言っており、結果的に幼稚園バスがルートを変更することになり、著者の要求が通った形となったのだが、幼稚園側としては、バスがまわるルートの効率性や、親の希望等も考慮したうえで、ルートを検討していくことになると思われる。それに加えて著者の一個人の意見もルートを決定していくうえでの考慮材料としなければならないとなると、著者のような感受性を持つ者がバスのルート近辺にいるたび、ルートを変更する羽目になり、非常に対応に苦慮することになるだろう。

苦痛を共感されないマイノリティであることを嘆きつつ、一方では圧倒的マイノリティだからこそ通りうる主張をぶつけている様は、エゴが過ぎるのではないか。

公共に弱い日本人性を訴えながら、公共に直接アクセスして自らの主張を押し通そうとするのは、わがままと言われても仕方がない。
 
と批判的な内容を述べたものの、この本の面白いのは、単なる活動家の自己満足に終わらず、日本人の習性として俯瞰的に物事を捉えようもしている点だ。
感情的になるのではなく、不快の元を突き止める試みは面白い。
対話のしづらさは実感しているところだが、それを打破できないのは、きっと著者のいう日本社会の特質を受け止めすぎていることにある。*2

*1:放送で発される内容を聞いた人が理解し、的確に実行しうるかという意味での実効性

*2:とはいえはそのような社会が生きやすいかは別だ。瞬発的に思いを言葉にできる者にとっては生きやすいだろうが、そうでない人にとっては苦痛だろう。