マスクとマナー

今週のお題「花粉」

 

2月の終わりから、鼻づまりと目のかゆみが酷い。
今年の花粉はひどく、くしゃみも止まらない。
時節柄、くしゃみによる飛沫にはひときわ敏感なため、マスクの上から鼻と口を覆ってくしゃみをするのだが、外でくしゃみをしてしまうといつもハラハラする。 
そろそろ病院にいって薬を処方してもらわなければいけない。
 
そういえば去年は、今年のように花粉に苦しめられなかった。
 
調べたところ、飛散量が例年よりも少なかったようだ。*1
 
コロナが徐々にやばいものだと知れ渡るようになり、マスク不足にあえいでいた時期でもあったため、これは不幸中の幸いだった。
未知のウイルスの感染拡大で日常が追われる感覚、あの時はまだ非日常で、季節の移り変わりの高揚感に混じった不思議な春の迎え方をしていた。
 
今は当たり前のようにマスクをしているが、コロナ前までマスク着用がマナー違反となる場面も多々あった。
接客時や会議の場でマスクをつけるのは、相手に表情が見えないから失礼といったたぐいのものだ。
2年以上前だが、市民対応時、ノーマスクを徹底する自治体もあり、好評だったという記事も見かけた。*2
 
例年、花粉症にひどく苦しめられる私にとって、こうしたマナーが一般化されたらきついなと思っていたところだったが、コロナが様相を一変させた。
 
今では、マスクをつけないことがマナー違反とされる。
 
そして、マスクをめぐっては、また新たなマナーが生み出された。*3
 
こういう規範をメディアで垂れ流すマナー講師のことを失礼クリエイターと揶揄する声もあるようだ。*4
 
あるマナーが受け入れられるか、炎上するかは時代の空気にかかっている。
きっと2年前であれば、マスクをつけることすらNGとされる場面もあったことから、柄付きなどもってのほかで、そもそも議論の俎上にすら上がらなかった。
 
翻って、マスク不足の阿鼻叫喚に陥っていた1年前に、柄付きマスクがどうのこうの言い始めたら、間違いなく炎上しただろう。
 
そして今はどうか。
マスクは市場に十分供給されており、無地の使い捨てマスクを普通にスーパーやドラッグストアで購入することができる。
柄付きマスクをつけることに、私的な意思が介在する余地があれば、不快に思う人もいて、こういうマナーがあってもしょうがないようにも思ったが、SNSなどでの反応をみると、マナー講師は時勢を読み違えたのかもしれないという風にも思う。
 
相手を不快にさせない、思いやる気持ちがマナーではあるが、何を不快に思うかは割と流動的なもので、まさにこの2年間はマスクをめぐるマナーの過渡期といえる。
この流動性がマナーの曲者ではあるのだが、マナーという規範のない世界もなかなかに辛いものがある。
 
たとえば、ビジネスの場での座席配置も、上座、下座など、その職位に応じて座る場所が決まっている。
その配置について、なにか合理性があるわけではないのだが、決められているからこそ、配置について一人一人の座りたい場所をいちいち考慮せず、座席位置でごたごたすることなく本題に入れる。
形式は、異なる他者との共存のために存在し、それ自体は感想の集積でしかなくとも、感情的配慮を規範に落とし込み、その配慮に対する負担から解放してくれるものでもある。
 
さて、花粉に苦しめられる私にとって、マスクをめぐるここまでのマナーの移り変わりは歓迎すべきものではあるが、コロナが終息して何年かしたら、きっとマスク禁止なる規範がまた生まれるようにも思う。
 
「歴史は繰り返す」というが、人の営みから生まれるマナーも同様、引っ込んではまた出現しを繰り返していくものなのだろう。

*1:https://jp.weathernews.com/news/31726/

*2:あえて「マスクなし対応」好評 市役所、風邪の職員は…:朝日新聞デジタル

*3:少し前の記事になる。