普通の客体化・面白さという評価軸

おとといEテレの番組「SWITCHインタビュー 達人達」を見た。

初めて見る番組で面白かったので、感想をまとめておきたい。

 

元・吉本興業の「伝説の広報マン」で現在「謝罪マスター」として活躍する竹中功。教育に漫才を取り入れ不登校ゼロを目指す名物校長・田畑栄一。コミュニケーションを語る

https://www.nhk.jp/p/switch-int/ts/LX2PXXL3KL/episode/te/WQPLNYN947/

 

異色な二人の対談からは、普通の客体化するスキルの汎用性を学びつつ、面白いという評価軸の強烈な存在を改めて突き付けられたような気がした。

 

1、普通の客体化

前半は竹中氏の話が中心で、自身の父から「人と違うこと」をするよう教育され、自身の中にも「人と違うこと」に対する美学があることや、活躍する芸人の資質に「人と違うこと」をする人をあげていた。

また、「謝罪マスター」の顔も持つ竹中氏は、芸人の不祥事に対する謝罪を「問題をつきつめ、誰が誰に何を詫びるかの整理が必要」で「中身を分析、分解して理解してもらわなければいけない」という話していた。

この話を受けて、私は「普通の客体化」するスキルこそ重要なように思った。

前段の「人と違うこと」をするためには、周りが何をやっていることを把握したうえでなければなしえない。

人と同じこと、つまり何が「普通」とされているかをまずとらえたうえで、それを内面化せずに独自性を発揮していくことが「人と違うこと」につながっていく。

それ自体が「普通」の枠に収まっているのかどうかという視点を持たずに単なる自分流の独自性を突き詰めていく人は、往々にして没個性に埋もれていく。

他方、謝罪においても、何を問題とするかは普遍的が固定的に存置されているわけではなく、その時代に何が「普通」とされているかに大きく依存する。

「闇営業」が大きな問題になったのも、コンプライアンスに厳しいこのご時世ゆえのことだ。

効果的な謝罪のためには、世間の「普通」を理解することが不可欠で、ここにおいても「普通」をいかに意識的にとらえるかが重要だと思う。

 

2、「面白さ」という評価軸

後半では、田畑氏が小学校で実践している「教育漫才」という取り組みが紹介されていた。

これは、児童がくじ引きで決まったコンビで、ネタ作りから始めてみんなの前で漫才をするというもので、「伝え合う力」を身に着けていくことを目指している。

普段の授業では、勉強が得意な子ばかりが発表することが多いが、そうではなく全員が皆の前で発表できる場をこのような取り組みを通じて作り出している。

また、どういう掛け合いが笑いにつながるかを考える作業は難しいが、それゆえ奥が深く、答えの出ない課題に立ち向かうクリエイティブな営みでもある。

これからの時代求められる能力を鍛える大きな要素が漫才にはたくさんあるように思う。

社会適応の視点でみても、面白さを提供できる能力は非常に大きな力を持つ。

面白いという感情は、プリミティブな正の感情として多くの人に埋め込まれている一方、何に対して面白さを感じるかは人によって変わってくるところだ。

そこで多くの人が生得的に有する笑いという正の感情を刺激できる者は、おのずとその集団における存在価値が高いものとみなされる。そこに面白さという評価軸があらわれる。

公的な場では、面白さを提供し笑いを交えたコミュニケーションを取り合うことが、やりとりの円滑さにつながる。

プライベートな場面では、特にそれが何も共通目的を持たない関係性であれば、面白さを提供できるかどうかがその集団にいていいかどうかを左右するものにもなりえ、社会適応における大きなスキルでもあるように思う。

そうした正の感情を提供できる力を競わせながら、楽しくコミュニケーションを学べる素晴らしい取り組みだと、視聴者目線では思ったものの、実際自分がこの取り組みに参加する側になったらなかなか辛いものがあるようにも思った。*1

 

大人が研修としてやっている事例もあることを知った途端抵抗感を覚えるのは、まさに当事者意識を持ったからで、集団の輪を維持するために、何か話を振られたら面白いかえしをしなければないと思いつつ、ロクな返しが出てこず場を冷めさせた経験を思い出すからなのかもしれない。

 

面白さが社会適応を大きく左右する指標であるがゆえに、それを評価される場は針の筵のようにも思う。

これは、テストの点数を晒されたり、かけっこでビリになること以上にキツイ。

これらは勝敗がはっきりする残酷さはあるが、あくまでも定められた枠内の競争である。一方、面白さは生きていくうえでは欠かせない社会適応スキルであるとともに、時として人間性にも結び付けられるからだ。

個人的には、お笑いを見ることは好きだが、笑いを交えたコミュニケーションがどこか規範化されている息苦しさもうっすらと感じている。

そうした規範は、面白さを誰もが求めるものであり、否定しづらいものであるからこそたちが悪い。

面白いやりとりをする効用の一つに、コミュニケーションを円滑にしていくことある。しかし面白さという評価軸が過度に規範化された先に待ち受けているのは、その円滑さを阻害するというアイロニカルな帰結だ。

 

田畑氏は「教育漫才」においては、「心理的安全」を維持することが重要と話していた。「教育漫才」という一つの手法は、とても興味深い取り組みだが、この「心理的安全」を欠いては非常に苦しい場になることは間違いない。

そして「心理的安全」を確保にあたっては、教師の力量が大きく試されるところで、面白い取り組みではあるものの、広めていくことの難しさも感じた。

 

 

 

 

*1:新入社員研修で漫才をさせる会社もあるようだ。https://bizdrive.ntt-east.co.jp/articles/dr00064-001.html