森氏の東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長辞任によせての雑感

 

私にとって、昔から森氏の印象はあまりよくなった。
 
森氏が首相だったのは20年前。
有事の報告を受けたにもかかわらず、ゴルフを楽しんでいたことでバッシングを受け、辞任に追い込まれたという記憶が朧気にある。
 
改めて事故の記事を読むと、アメリカ海軍の原子力潜水艦の不注意で日本の漁業練習船に衝突したというもので、 当時は私自身が反米感情を燃やしていた時期だったからか、とにかく森元首相の印象が悪い。
そんな氏を当時の私は感覚的に「敵」とみなしていた。  
 
そして今回は失言だ。
JOCの臨時評議会で女性蔑視ともとれる発言をし、またもやバッシングを受け、辞任にいたった。
 
オリンピックを間近に控えての組織委員会の要職の辞任といえば、2019年の大河ドラマ「いだてん!」の下期の主人公的存在だった、田畑政治を思い出す。
 
物語の終盤、1964年の2年前、ジャカルタアジア大会で、開催国のインドネシアが政治的に対立する国の選手の参加を事実上拒否した。
現地には、東京五輪組織委員会の事務総長を務めていた田畑政治率いる日本選手団がおり、大会に出場するかの決断を迫られる。
 
時は東西冷戦時代で、 世界的な政治問題がスポーツの世界を浸食していた。
出場してもしなくても、その行動が政治的に大きな影響を与えるものとなる。
 
結局大会の出場に踏み切ったわけだが、帰国後、有力政治家や国民から叩かれ、あえなく田畑は辞任に追い込まれた。
 
 
田畑は政治的に敗北した。  
  
カール・シュミットは、政治の本質を「敵と友」に分けることに見出している。
これはあらゆる抽象的な言葉について、その本質を突き詰めたとき、究極的な区別に達するとした発想から導き出されている。
政治以外の言葉で言えば、例えば「道徳」であれば「善と悪」、経済であれば「利益と損失」、美学であれば「美と醜」といった具合だ。
 
ここで、「敵と友」は「善と悪」、「利益と損失」、「美と醜」から切り離されたものとしてとらえられ、それを政治的なものととらえる。
 
こういった、政治のとらえ方は、普遍的、絶対的な観念と政治を当然に結びつけず、そこで問題とされる事柄を相対化する意義がある。
 
 前述のいだてんのシーンからは、政治的中立性の確保がオリンピックの一理念としてあ置かれている一方で、その理念を守りつつオリンピックの開催に動いていくためには、「敵と友」をめぐる政治的闘争のフィールドで勝ち残っていかなければならないことが示唆されている。
その点、田畑と対立していた政界の寝業師、川島は圧倒的に政治に長けていた。  
 
 
さて、現代に戻り、森氏は多方面からぶったたかれている。
今回のような形で辞任に追い込まれたことは、まさに政治的敗北を意味するだろう。
 
現代にあっては、「男女平等」や「LGBTの権利尊重」などが、その扱いによって「敵と友」と大きく左右するキーワードとなっていることに加え、大会の基本コンセプトに「多様性と調和」を掲げ、ジェンダーの平等を基本的原則の一つとしていることからも、森氏の個人的なジェンダーに対する思い入れに関わらず、会長という立場からして、ジェンダーをめぐる発言にはひときわ敏感であるべきだった。
 
森氏のジェンダーに対する鈍感さによって、オリンピック自体が「敵と友」の世界に飲み込まれ、組織委員会へのクレームやボランティアの辞退が相次ぎ、運営にも支障をきたす結果となった。
そんな今回の経過を見て、やっぱり森氏は会長としてふさわしくなかったんだろうと思う。
一方で森氏を社会の「敵」に落とし込み、いくらブッ叩いても構わないという空気感が生まれることは一つの脅威だ。
ここは森氏を「敵と友」をめぐるゲームの敗北者という程度の位置づけで、冷静にとらえたいと思う。