酒の代替としての炭酸水
マスクとマナー
今週のお題「花粉」
「雛祭り」とジェンダー規範(「82年生まれ、キム・ジヨン」を読んで)
今週のお題「雛祭り」
女の子の健やかな成長を願う桃の節句「雛祭り」
「うっせぇわ」と「尾崎豊」の異同
「うっせぇわ」という曲が話題になっている。
https://www.youtube.com/watch?v=Qp3b-RXtz4w&feature=emb_logo
この曲をめぐって、賛否両論盛り上がっており、以下の記事読んだ。
「『うっせぇわ』は子どもに歌わせない」という親たちに伝えたいこと(島沢 優子) | FRaU
批判的な意見としては、次のものが指摘されている。
「子どもに宿題しなさいと言っても、うっせえ、うっせえと歌うばかりで言うことを聞かない」
「不快感と、重めの“中二病”を感じた」
「心の中でいきってて、可哀想」
小さなころから優等生として育ってきたが、大人になってからも当然のように求められる振る舞い、「不文律最低限のマナー」を押し付けられ、模範的であることを強要されることに対する不満が爆発する様が歌詞に込められている。
歌詞の後半になるにつれ、その不満がより強い言葉にのせて表現されており、最後は「どうだっていいぜ、問題はナシ」でしめられる。
全体を通して不満を先鋭化させ、感情をぶちまけているような印象だ。
「社会人にしては幼稚な歌詞」という批判もあり、歌詞を理屈でとらえたら批判に晒されるのも分かる。
確かに「うっせぇわ」の先にいかなる葛藤やコミュニケーションもなく、批判に対しても「どうだっていいぜ」で片づけられてしまう勢いが見受けられるこの歌詞はどこか幼稚ではあるが、一方で歌詞の言葉の汚さや幼稚さを大人が攻撃すればするほど、この歌の存在感も大きなものになっていく。
私自身は理屈ではこの歌詞にどちらかというと批判的な立場をとるが、ただただ不満をぶちまけたい、感情を発散させたいときなんかは響くものがあるようにも思う。
例えば、仕事で理不尽な仕打ちを受けたときに、家に帰って一人でストロングゼロを飲み、べろんべろんに酔っているときなんかに聞いたらいいかもしれない。
ところで、今日「この差って何ですか?」という番組で尾崎豊の特集を見た。
尾崎豊もその反社会的な歌詞から、よく批判に晒されている場面を見かけるが、「うっせぇわ」との異同をここで整理してみたい。
1、似ているところ
「うっせぇわ」においては、上司の一方的な規範の押し付けに強い抵抗感を抱き、言葉の暴力でもって愚痴り倒している。
一方尾崎豊については、ここで良くも悪くも有名な「15の夜」と「卒業」に触れたい。
いずれの曲も、学校という強い規範でがんじがらめにされた環境で、自由を求め、それを行動に起こした結果が「盗んだバイクで走りだす」や「夜の校舎窓ガラス壊して回った」につながっている。
押し付けられた規範に対する抵抗をうたっているところは共通している。
2、異なるところ
「うっせぇわ」は感情の発散にとどまっており、歌詞の後半にいくにつれてどんどん感情を爆発させていき、最後には思考することすら放棄している。
一方、尾崎豊の歌詞はもう少し複雑だ。
たとえば「15の夜」については、最後に「誰にも縛られたくないと逃げ出したこの夜に自由になれた気がした15の夜」としめられている。
この「なれた気がした」とうのがポイント*1で、「なれた」とは思えていないところに注目する必要がある。
また、「卒業」においても、学校から卒業することはできても、「これからは 何が俺を縛りつけるだろう あと何度自分自身 卒業すれば本当の自分に たどりつけるだろう」という歌詞に見られるように、卒業すれば自由になれるとは思っていない。
自由を束縛する規範が学校のみならずあらゆる場所に存在する、そんな規範の普遍性も感じ取りながらあがき続ける心情がここに示されているようにも思う。
そうした普遍性を見据えているかどうかに大きな違いがある。
私自身が大人の側になっていったせいか、どうしても新しいものをくさしがちになってしまうことが最近多い。そういう感性の老いにあらがうため、今回はあえて流行りの曲に触れてみた。
大人の側になった私が若者の代弁者的存在である尾崎豊の歌詞を持ち上げるのは、そこに普遍性を感じ取るからのようにも思うが、「この差って何ですか?」の中では高校の倫理の教科書に尾崎豊の歌詞がとりあげられているという話もでてきた。
そうすると、今の若年層にとっては尾崎豊が権威的なものにもとらえかねないだろうなとも思ったりもした。
*1:「この差って何ですか?」でも触れられていた。
普通の客体化・面白さという評価軸
おとといEテレの番組「SWITCHインタビュー 達人達」を見た。
初めて見る番組で面白かったので、感想をまとめておきたい。
元・吉本興業の「伝説の広報マン」で現在「謝罪マスター」として活躍する竹中功。教育に漫才を取り入れ不登校ゼロを目指す名物校長・田畑栄一。コミュニケーションを語る
https://www.nhk.jp/p/switch-int/ts/LX2PXXL3KL/episode/te/WQPLNYN947/
異色な二人の対談からは、普通の客体化するスキルの汎用性を学びつつ、面白いという評価軸の強烈な存在を改めて突き付けられたような気がした。
1、普通の客体化
前半は竹中氏の話が中心で、自身の父から「人と違うこと」をするよう教育され、自身の中にも「人と違うこと」に対する美学があることや、活躍する芸人の資質に「人と違うこと」をする人をあげていた。
また、「謝罪マスター」の顔も持つ竹中氏は、芸人の不祥事に対する謝罪を「問題をつきつめ、誰が誰に何を詫びるかの整理が必要」で「中身を分析、分解して理解してもらわなければいけない」という話していた。
この話を受けて、私は「普通の客体化」するスキルこそ重要なように思った。
前段の「人と違うこと」をするためには、周りが何をやっていることを把握したうえでなければなしえない。
人と同じこと、つまり何が「普通」とされているかをまずとらえたうえで、それを内面化せずに独自性を発揮していくことが「人と違うこと」につながっていく。
それ自体が「普通」の枠に収まっているのかどうかという視点を持たずに単なる自分流の独自性を突き詰めていく人は、往々にして没個性に埋もれていく。
他方、謝罪においても、何を問題とするかは普遍的が固定的に存置されているわけではなく、その時代に何が「普通」とされているかに大きく依存する。
「闇営業」が大きな問題になったのも、コンプライアンスに厳しいこのご時世ゆえのことだ。
効果的な謝罪のためには、世間の「普通」を理解することが不可欠で、ここにおいても「普通」をいかに意識的にとらえるかが重要だと思う。
2、「面白さ」という評価軸
後半では、田畑氏が小学校で実践している「教育漫才」という取り組みが紹介されていた。
これは、児童がくじ引きで決まったコンビで、ネタ作りから始めてみんなの前で漫才をするというもので、「伝え合う力」を身に着けていくことを目指している。
普段の授業では、勉強が得意な子ばかりが発表することが多いが、そうではなく全員が皆の前で発表できる場をこのような取り組みを通じて作り出している。
また、どういう掛け合いが笑いにつながるかを考える作業は難しいが、それゆえ奥が深く、答えの出ない課題に立ち向かうクリエイティブな営みでもある。
これからの時代求められる能力を鍛える大きな要素が漫才にはたくさんあるように思う。
社会適応の視点でみても、面白さを提供できる能力は非常に大きな力を持つ。
面白いという感情は、プリミティブな正の感情として多くの人に埋め込まれている一方、何に対して面白さを感じるかは人によって変わってくるところだ。
そこで多くの人が生得的に有する笑いという正の感情を刺激できる者は、おのずとその集団における存在価値が高いものとみなされる。そこに面白さという評価軸があらわれる。
公的な場では、面白さを提供し笑いを交えたコミュニケーションを取り合うことが、やりとりの円滑さにつながる。
プライベートな場面では、特にそれが何も共通目的を持たない関係性であれば、面白さを提供できるかどうかがその集団にいていいかどうかを左右するものにもなりえ、社会適応における大きなスキルでもあるように思う。
そうした正の感情を提供できる力を競わせながら、楽しくコミュニケーションを学べる素晴らしい取り組みだと、視聴者目線では思ったものの、実際自分がこの取り組みに参加する側になったらなかなか辛いものがあるようにも思った。*1
大人が研修としてやっている事例もあることを知った途端抵抗感を覚えるのは、まさに当事者意識を持ったからで、集団の輪を維持するために、何か話を振られたら面白いかえしをしなければないと思いつつ、ロクな返しが出てこず場を冷めさせた経験を思い出すからなのかもしれない。
面白さが社会適応を大きく左右する指標であるがゆえに、それを評価される場は針の筵のようにも思う。
これは、テストの点数を晒されたり、かけっこでビリになること以上にキツイ。
これらは勝敗がはっきりする残酷さはあるが、あくまでも定められた枠内の競争である。一方、面白さは生きていくうえでは欠かせない社会適応スキルであるとともに、時として人間性にも結び付けられるからだ。
個人的には、お笑いを見ることは好きだが、笑いを交えたコミュニケーションがどこか規範化されている息苦しさもうっすらと感じている。
そうした規範は、面白さを誰もが求めるものであり、否定しづらいものであるからこそたちが悪い。
面白いやりとりをする効用の一つに、コミュニケーションを円滑にしていくことある。しかし面白さという評価軸が過度に規範化された先に待ち受けているのは、その円滑さを阻害するというアイロニカルな帰結だ。
田畑氏は「教育漫才」においては、「心理的安全」を維持することが重要と話していた。「教育漫才」という一つの手法は、とても興味深い取り組みだが、この「心理的安全」を欠いては非常に苦しい場になることは間違いない。
そして「心理的安全」を確保にあたっては、教師の力量が大きく試されるところで、面白い取り組みではあるものの、広めていくことの難しさも感じた。
*1:新入社員研修で漫才をさせる会社もあるようだ。https://bizdrive.ntt-east.co.jp/articles/dr00064-001.html
土日以外で休むなら何曜日?
2月23日は「天皇誕生日」ということで休みだった。
第三条 「国民の祝日」は、休日とする。
コロナ禍の自己管理(私生活面)
お題「#この1年の変化 」
前回、仕事面での「コロナ禍の自己管理」*1をまとめたが、
新型コロナウイルス感染症によって、私生活もがらりと変わった。
コロナ禍では、外出自粛が求められた。
これが、
当時の依存はまるで底なし沼のごとく、
もはや自己管理能力でどうこうできない領域のようにも思え、社会人になることに不安も感じていたが、まあなんとかなった。
いまははてなブログに執筆することで、
さて、外出自粛によりネット依存が悪化することは想像に難くないだろう
新型コロナウイルス感染症が流行する前までは、
この罪悪感は、
そんな罪悪感があったから、
多くは、
去年の4月に発出された緊急事態宣言は、
私の場合、
ネットにはこれまで以上にのめりこみ、
当然楽しいからネットをするわけだが、
そんな状況で、
チャットサイトで生じるいざこざについて、
無論、外出自粛は「自粛」にとどめられており、
しかし、
コロナ前、休日に窓越しの雲一つない青空を見ても「休日も外出し一日を満喫すべき」という外圧を盛り立てるものとくさしつつ抱いていた罪悪感が、前述の経験を経て、むしろ、自らのうちから湧き上がってくる外
と、ここまでいかにネット依存という負の面ばかりを書いてきたが、
新たな習慣とは筋トレである。
きっかけは以下の書籍だ。
筋トレが最強のソリューションである マッチョ社長が教える究極の悩み解決法 | Testosterone(テストステロン) |本 | 通販 | Amazon
生きていてぶつかる課題に対し、いずれも「とにかく筋トレしろ」という結論に結び付けられるのだが、筋トレの効能が著者の経験則のみならず科学的にも説明されており、筋トレをする気にさせられる本だった。
上記の本で筋トレ意欲を書き立てられ、運動欲求そのものにこたえるため、また目と脳を酷使するネットから距離をとるため、さらに習慣を継続することで苦手な自己管理ができている実感を獲得するため、
こうした己の外出・運動欲求に気づくこと、さらにその欲求にこたえていくという発想は、コロナ禍でなければ持てなかったように思う。
運動といっても週1~2のペースで筋トレをし、
自己管理に苦手意識を持っており、あらゆるものごとが三日坊主に終わってしまう私ではあるが、今のところ運動は続けられており、成長の実感も得ることができた。
今後も最低は週一は筋トレにいそしみたいところだ。