酒の代替としての炭酸水

私は酒が好きだ。
特にビールが好きで、週1回は自分へのご褒美にロング缶を買っている。
 
酔いたい日には、ビールのほか、鬼レモンやストロングゼロなど、アルコール度数が高めのチューハイを飲むこともある。
 
今は週1程度の飲酒習慣を定着させつつあるが、以前は毎日のように酒を飲んでいた。
 
翌日仕事を控えた日は、350ml缶を1~2本程度にとどめていたものの、酒を飲んでしまうとその日の夜の眠りが浅くなる。
翌朝は早く目が覚め、疲れがとれ切れず、出勤時の気分はあまりよくない。
出勤後も胃がむかむかしたりして、仕事のパフォーマンスも落ちる。
 
酒を毎日飲んでいたころは、酒を飲んだうえでの自分のコンディションがベースだったため、そこまでパフォーマンスの低下を感じることはなかったものの、たまに酒を飲まずに次の日の仕事に臨んだとき、その成果の違いを実感することとなった。
 
その違いを感じてから、夜に酒を飲むことに罪悪感が芽生え始め、飲むこと自体が小さなストレスとなっていった。
 
そのストレスへの手立てとしては、2つある。
1つは、毎日の飲酒習慣をなくす。
もう1つは、そのストレスを打ち消すほどに酒を飲み、未来の心配を打ち消す。
 
以前の私は、後者を選択してしまった。
そして、翌日の体調は悪化し、その悪化に対する罪悪感で夜にまた飲みすぎ・・・という悪循環に陥っていた時期もあった。
 
こうした状況はまずいだろうと少し前に感じ始め、酒の量を減らし、今では週1程度に抑えることができた。
 
毎日の飲酒習慣を週1に減らすにあたって、効果的だったのが、酒の代替として、レモンフレーバーの炭酸水を充てたことだ。
意外なことに、これがちょうどよく機能している。
  
酒には酔いを求めているのだが、それだけではなくのどごしも求めている。
炭酸のシュワシュワが喉を通過し、胃にガスが溜まり、鼻腔からガスが抜けていくあの感覚はビールを飲んだときのそれと似ている
ビールと思って炭酸水を飲んでいるうちに、体がそれなりに満足するようになった。
 
炭酸水であれば、翌日の体調に影響もない。
また、酒よりも安価である。
さらに、サイダーやコーラのように糖分が入っておらず、虫歯になるリスクを心配することもない。
こうしたメリットは、飲むことに対する罪悪感からも解放され、メンタル的にもいい。
 
個人的には、炭酸の強ければ強いほど、酒に近いのどごしを感じることができるため、強炭酸のの炭酸水がおすすめだ。
 
 
とはいえ、完全な代替品とはならない。
 
週1の縛りを設けても、その縛りに関わらずどうしても飲みたくなる日が唐突に訪れる。
特に負の感情が増幅し、らせん階段を転げ落ちていくようにメンタルが下降していくとき、そんなときは、その落ち込みを停止させるため、酒を飲んで思考をぼやけさせる。
 
酒に飲まれすぎず、かといって無理して禁酒を宣言することもせず、ストレスにならない程度の距離感で付き合いたいところだ。

マスクとマナー

今週のお題「花粉」

 

2月の終わりから、鼻づまりと目のかゆみが酷い。
今年の花粉はひどく、くしゃみも止まらない。
時節柄、くしゃみによる飛沫にはひときわ敏感なため、マスクの上から鼻と口を覆ってくしゃみをするのだが、外でくしゃみをしてしまうといつもハラハラする。 
そろそろ病院にいって薬を処方してもらわなければいけない。
 
そういえば去年は、今年のように花粉に苦しめられなかった。
 
調べたところ、飛散量が例年よりも少なかったようだ。*1
 
コロナが徐々にやばいものだと知れ渡るようになり、マスク不足にあえいでいた時期でもあったため、これは不幸中の幸いだった。
未知のウイルスの感染拡大で日常が追われる感覚、あの時はまだ非日常で、季節の移り変わりの高揚感に混じった不思議な春の迎え方をしていた。
 
今は当たり前のようにマスクをしているが、コロナ前までマスク着用がマナー違反となる場面も多々あった。
接客時や会議の場でマスクをつけるのは、相手に表情が見えないから失礼といったたぐいのものだ。
2年以上前だが、市民対応時、ノーマスクを徹底する自治体もあり、好評だったという記事も見かけた。*2
 
例年、花粉症にひどく苦しめられる私にとって、こうしたマナーが一般化されたらきついなと思っていたところだったが、コロナが様相を一変させた。
 
今では、マスクをつけないことがマナー違反とされる。
 
そして、マスクをめぐっては、また新たなマナーが生み出された。*3
 
こういう規範をメディアで垂れ流すマナー講師のことを失礼クリエイターと揶揄する声もあるようだ。*4
 
あるマナーが受け入れられるか、炎上するかは時代の空気にかかっている。
きっと2年前であれば、マスクをつけることすらNGとされる場面もあったことから、柄付きなどもってのほかで、そもそも議論の俎上にすら上がらなかった。
 
翻って、マスク不足の阿鼻叫喚に陥っていた1年前に、柄付きマスクがどうのこうの言い始めたら、間違いなく炎上しただろう。
 
そして今はどうか。
マスクは市場に十分供給されており、無地の使い捨てマスクを普通にスーパーやドラッグストアで購入することができる。
柄付きマスクをつけることに、私的な意思が介在する余地があれば、不快に思う人もいて、こういうマナーがあってもしょうがないようにも思ったが、SNSなどでの反応をみると、マナー講師は時勢を読み違えたのかもしれないという風にも思う。
 
相手を不快にさせない、思いやる気持ちがマナーではあるが、何を不快に思うかは割と流動的なもので、まさにこの2年間はマスクをめぐるマナーの過渡期といえる。
この流動性がマナーの曲者ではあるのだが、マナーという規範のない世界もなかなかに辛いものがある。
 
たとえば、ビジネスの場での座席配置も、上座、下座など、その職位に応じて座る場所が決まっている。
その配置について、なにか合理性があるわけではないのだが、決められているからこそ、配置について一人一人の座りたい場所をいちいち考慮せず、座席位置でごたごたすることなく本題に入れる。
形式は、異なる他者との共存のために存在し、それ自体は感想の集積でしかなくとも、感情的配慮を規範に落とし込み、その配慮に対する負担から解放してくれるものでもある。
 
さて、花粉に苦しめられる私にとって、マスクをめぐるここまでのマナーの移り変わりは歓迎すべきものではあるが、コロナが終息して何年かしたら、きっとマスク禁止なる規範がまた生まれるようにも思う。
 
「歴史は繰り返す」というが、人の営みから生まれるマナーも同様、引っ込んではまた出現しを繰り返していくものなのだろう。

*1:https://jp.weathernews.com/news/31726/

*2:あえて「マスクなし対応」好評 市役所、風邪の職員は…:朝日新聞デジタル

*3:少し前の記事になる。

「雛祭り」とジェンダー規範(「82年生まれ、キム・ジヨン」を読んで)

今週のお題「雛祭り」

女の子の健やかな成長を願う桃の節句「雛祭り」

「雛祭り」は結婚式を模したもので、将来素敵な結婚ができるよう願いを込めて、お雛様が飾られる。
 「片付けが遅れれば婚期が遅れる。」なんてことも言われ、見方を変えると、幸せな結婚をすることこそ女の子の理想とする観念とは切っても切り離せないイベントでもあり、固定的なジェンダーを植え付けるものと指摘される可能性は常につきまとう。
直接的に女性に何らかの観念を押し付けるものではなくとも、伝統的な規範が背景にある行事が存在し続けることで、無意識的にあるべき女性像が刷り込まれていくことを懸念する声に対して、なかなか真っ向から反論することも難しい気もする。
 
これからの時代、こういう行事は現代力を放っているジェンダーの平等を志向する価値観に則って徐々にデフォルメされていくのだろう。
 
さて、あえてジェンダーに触れたのは、「82年生まれ、キム・ジヨン」を最近読んだことにある。
 
韓国で大ヒットした小説で、日本でも話題になった。
図書館で予約していたところ、ようやく順番が来た。
韓国文学を読むのは初めてで、登場人物の名前が中々頭に入ってこなかったが、そのあたりは読み進めていく中でクリアした。
 
妊娠を期に仕事をやめた主人公キム・ジヨンの半生が描かれ、韓国に生きる現代女性の生きづらさに触れられている。
一応小説なのだが、小説というには、あらゆる描写が著者自身の体験のようにリアルで、 随所に統計データも取り上げられ、問題意識も非常に明確な、ジャーナリスティックなものとなっている
  
韓国独特の文化がありながらも、現代女性の生きづらさという点については、日本も似たようなものを持っているからこそ、日本でもヒットしたんだと思う。
 
ここで、小説を読み進めて思った、日韓で共通するところ、異なるところをまとめてみたい。
 
1,日韓の共通点
 
ジェンダー平等化が一理念として大事にされつつある現代においても、固定的な性役割意識がむき出しとなる行動を何気なくとってしまう。
その部分の描写は日韓で共通しているように思った。
 
たとえば、小説の主人公の夫は、しきりに家事育児を「手伝う」という言葉を使う。
その言葉に主人公がカッとなり、「なぜ他人に施しをするみたいな言い方するの?」とかみつく。
手伝うとは、まさに「他人に施しをする」という意味合いで、そこに当事者意識が見られない。
主人公は、夫婦で暮らしているのであれば、本来的には夫婦で家事をするべきところ、女性である自身の本来業務とされていることに問題意識を抱く
他方夫は優しさから「手伝う」という言葉を用い、その言葉が固定的な性役割意識にとらわれていることにいつも無自覚だ。
主人公にかみつかれた夫は当惑で口ごもる。
 
こうした話は日本でもよく聞く。
家事の役割分担が当事者の合意でなく、社会的風潮によって当然に規定されていることに加え、その構造に無自覚な夫を責めてしまうことに対する罪悪感が、女性の怒りとあいまったやりきれなさにつながっているように思う。
 
「手伝う」という言葉はたしかに当事者意識を欠いているし、イラつく心理はとてもよく理解できる。
しかし、男性側からするとそういう意識に無自覚で、思わずそんな些細なことで…と思ってしまう面もあり、難しい。
 
些細とされるあらゆる問題がこの小説には丁寧に描かれている
 
 
2、日韓の相違点
 
日本と違い韓国には徴兵制がある。
この制度の存在が、ジェンダー観に大きな影響を与えているようにも思う。
 
就活にあたり、主人公の同級生の女性が、大学が持っている企業の推薦枠について、その枠に入れる者が男性だらけな理由を教授に問い詰めるシーンで、教授は「軍隊にいってきたことへの保障」を持ち出す。
 
軍の存在は非常に大きい。
軍での経験を通し、一人前とみなすいわば通過儀礼的な意味合いもあり、それが男性にだけ課せられるものだとすれば、おのずとその経験を経ていない女性は半人前という見方が出てくるようにも思う。
女性ならではの苦悩はあっても、明確な通過儀礼的なものがなければ、なかなかその認識は動かせないだろう。
 
意識の面では徴兵を当然に免れる女性が優遇されているように受け止める男性も少なくない。
 
徴兵をめぐっては、いっそのこと女性にも課してしまったほうが問題がすっきりするのでは?とも思ってググってみたところ、やはり議論の俎上には載っているようだ。
 
 
以上、日韓の共通点、相違点に触れたが、徴兵制度のない日本でも「1,日韓の共通点」で述べた点については、今後ますます叫ばれることとなるだろう。
 
行事としての「雛祭り」の今後の展開と併せ、ジェンダー規範のうつろいには今後も注視したい。

「うっせぇわ」と「尾崎豊」の異同

「うっせぇわ」という曲が話題になっている。

 

https://www.youtube.com/watch?v=Qp3b-RXtz4w&feature=emb_logo

 

この曲をめぐって、賛否両論盛り上がっており、以下の記事読んだ。

 

「『うっせぇわ』は子どもに歌わせない」という親たちに伝えたいこと(島沢 優子) | FRaU

批判的な意見としては、次のものが指摘されている。

 

「子どもに宿題しなさいと言っても、うっせえ、うっせえと歌うばかりで言うことを聞かない」

「不快感と、重めの“中二病”を感じた」

「心の中でいきってて、可哀想」

  

小さなころから優等生として育ってきたが、大人になってからも当然のように求められる振る舞い、「不文律最低限のマナー」を押し付けられ、模範的であることを強要されることに対する不満が爆発する様が歌詞に込められている。

歌詞の後半になるにつれ、その不満がより強い言葉にのせて表現されており、最後は「どうだっていいぜ、問題はナシ」でしめられる。

全体を通して不満を先鋭化させ、感情をぶちまけているような印象だ。

「社会人にしては幼稚な歌詞」という批判もあり、歌詞を理屈でとらえたら批判に晒されるのも分かる。

確かに「うっせぇわ」の先にいかなる葛藤やコミュニケーションもなく、批判に対しても「どうだっていいぜ」で片づけられてしまう勢いが見受けられるこの歌詞はどこか幼稚ではあるが、一方で歌詞の言葉の汚さや幼稚さを大人が攻撃すればするほど、この歌の存在感も大きなものになっていく。

私自身は理屈ではこの歌詞にどちらかというと批判的な立場をとるが、ただただ不満をぶちまけたい、感情を発散させたいときなんかは響くものがあるようにも思う。

例えば、仕事で理不尽な仕打ちを受けたときに、家に帰って一人でストロングゼロを飲み、べろんべろんに酔っているときなんかに聞いたらいいかもしれない。

ところで、今日「この差って何ですか?」という番組で尾崎豊の特集を見た。

 

尾崎豊もその反社会的な歌詞から、よく批判に晒されている場面を見かけるが、「うっせぇわ」との異同をここで整理してみたい。

 

1、似ているところ

「うっせぇわ」においては、上司の一方的な規範の押し付けに強い抵抗感を抱き、言葉の暴力でもって愚痴り倒している。

一方尾崎豊については、ここで良くも悪くも有名な「15の夜」と「卒業」に触れたい。

いずれの曲も、学校という強い規範でがんじがらめにされた環境で、自由を求め、それを行動に起こした結果が「盗んだバイクで走りだす」や「夜の校舎窓ガラス壊して回った」につながっている。

押し付けられた規範に対する抵抗をうたっているところは共通している。

 

2、異なるところ

「うっせぇわ」は感情の発散にとどまっており、歌詞の後半にいくにつれてどんどん感情を爆発させていき、最後には思考することすら放棄している。

一方、尾崎豊の歌詞はもう少し複雑だ。

たとえば「15の夜」については、最後に「誰にも縛られたくないと逃げ出したこの夜に自由になれた気がした15の夜」としめられている。

この「なれた気がした」とうのがポイント*1で、「なれた」とは思えていないところに注目する必要がある。

また、「卒業」においても、学校から卒業することはできても、「これからは 何が俺を縛りつけるだろう あと何度自分自身 卒業すれば本当の自分に たどりつけるだろう」という歌詞に見られるように、卒業すれば自由になれるとは思っていない。

自由を束縛する規範が学校のみならずあらゆる場所に存在する、そんな規範の普遍性も感じ取りながらあがき続ける心情がここに示されているようにも思う。

そうした普遍性を見据えているかどうかに大きな違いがある。

 

私自身が大人の側になっていったせいか、どうしても新しいものをくさしがちになってしまうことが最近多い。そういう感性の老いにあらがうため、今回はあえて流行りの曲に触れてみた。

大人の側になった私が若者の代弁者的存在である尾崎豊の歌詞を持ち上げるのは、そこに普遍性を感じ取るからのようにも思うが、「この差って何ですか?」の中では高校の倫理の教科書に尾崎豊の歌詞がとりあげられているという話もでてきた。

そうすると、今の若年層にとっては尾崎豊が権威的なものにもとらえかねないだろうなとも思ったりもした。

*1:「この差って何ですか?」でも触れられていた。

普通の客体化・面白さという評価軸

おとといEテレの番組「SWITCHインタビュー 達人達」を見た。

初めて見る番組で面白かったので、感想をまとめておきたい。

 

元・吉本興業の「伝説の広報マン」で現在「謝罪マスター」として活躍する竹中功。教育に漫才を取り入れ不登校ゼロを目指す名物校長・田畑栄一。コミュニケーションを語る

https://www.nhk.jp/p/switch-int/ts/LX2PXXL3KL/episode/te/WQPLNYN947/

 

異色な二人の対談からは、普通の客体化するスキルの汎用性を学びつつ、面白いという評価軸の強烈な存在を改めて突き付けられたような気がした。

 

1、普通の客体化

前半は竹中氏の話が中心で、自身の父から「人と違うこと」をするよう教育され、自身の中にも「人と違うこと」に対する美学があることや、活躍する芸人の資質に「人と違うこと」をする人をあげていた。

また、「謝罪マスター」の顔も持つ竹中氏は、芸人の不祥事に対する謝罪を「問題をつきつめ、誰が誰に何を詫びるかの整理が必要」で「中身を分析、分解して理解してもらわなければいけない」という話していた。

この話を受けて、私は「普通の客体化」するスキルこそ重要なように思った。

前段の「人と違うこと」をするためには、周りが何をやっていることを把握したうえでなければなしえない。

人と同じこと、つまり何が「普通」とされているかをまずとらえたうえで、それを内面化せずに独自性を発揮していくことが「人と違うこと」につながっていく。

それ自体が「普通」の枠に収まっているのかどうかという視点を持たずに単なる自分流の独自性を突き詰めていく人は、往々にして没個性に埋もれていく。

他方、謝罪においても、何を問題とするかは普遍的が固定的に存置されているわけではなく、その時代に何が「普通」とされているかに大きく依存する。

「闇営業」が大きな問題になったのも、コンプライアンスに厳しいこのご時世ゆえのことだ。

効果的な謝罪のためには、世間の「普通」を理解することが不可欠で、ここにおいても「普通」をいかに意識的にとらえるかが重要だと思う。

 

2、「面白さ」という評価軸

後半では、田畑氏が小学校で実践している「教育漫才」という取り組みが紹介されていた。

これは、児童がくじ引きで決まったコンビで、ネタ作りから始めてみんなの前で漫才をするというもので、「伝え合う力」を身に着けていくことを目指している。

普段の授業では、勉強が得意な子ばかりが発表することが多いが、そうではなく全員が皆の前で発表できる場をこのような取り組みを通じて作り出している。

また、どういう掛け合いが笑いにつながるかを考える作業は難しいが、それゆえ奥が深く、答えの出ない課題に立ち向かうクリエイティブな営みでもある。

これからの時代求められる能力を鍛える大きな要素が漫才にはたくさんあるように思う。

社会適応の視点でみても、面白さを提供できる能力は非常に大きな力を持つ。

面白いという感情は、プリミティブな正の感情として多くの人に埋め込まれている一方、何に対して面白さを感じるかは人によって変わってくるところだ。

そこで多くの人が生得的に有する笑いという正の感情を刺激できる者は、おのずとその集団における存在価値が高いものとみなされる。そこに面白さという評価軸があらわれる。

公的な場では、面白さを提供し笑いを交えたコミュニケーションを取り合うことが、やりとりの円滑さにつながる。

プライベートな場面では、特にそれが何も共通目的を持たない関係性であれば、面白さを提供できるかどうかがその集団にいていいかどうかを左右するものにもなりえ、社会適応における大きなスキルでもあるように思う。

そうした正の感情を提供できる力を競わせながら、楽しくコミュニケーションを学べる素晴らしい取り組みだと、視聴者目線では思ったものの、実際自分がこの取り組みに参加する側になったらなかなか辛いものがあるようにも思った。*1

 

大人が研修としてやっている事例もあることを知った途端抵抗感を覚えるのは、まさに当事者意識を持ったからで、集団の輪を維持するために、何か話を振られたら面白いかえしをしなければないと思いつつ、ロクな返しが出てこず場を冷めさせた経験を思い出すからなのかもしれない。

 

面白さが社会適応を大きく左右する指標であるがゆえに、それを評価される場は針の筵のようにも思う。

これは、テストの点数を晒されたり、かけっこでビリになること以上にキツイ。

これらは勝敗がはっきりする残酷さはあるが、あくまでも定められた枠内の競争である。一方、面白さは生きていくうえでは欠かせない社会適応スキルであるとともに、時として人間性にも結び付けられるからだ。

個人的には、お笑いを見ることは好きだが、笑いを交えたコミュニケーションがどこか規範化されている息苦しさもうっすらと感じている。

そうした規範は、面白さを誰もが求めるものであり、否定しづらいものであるからこそたちが悪い。

面白いやりとりをする効用の一つに、コミュニケーションを円滑にしていくことある。しかし面白さという評価軸が過度に規範化された先に待ち受けているのは、その円滑さを阻害するというアイロニカルな帰結だ。

 

田畑氏は「教育漫才」においては、「心理的安全」を維持することが重要と話していた。「教育漫才」という一つの手法は、とても興味深い取り組みだが、この「心理的安全」を欠いては非常に苦しい場になることは間違いない。

そして「心理的安全」を確保にあたっては、教師の力量が大きく試されるところで、面白い取り組みではあるものの、広めていくことの難しさも感じた。

 

 

 

 

*1:新入社員研修で漫才をさせる会社もあるようだ。https://bizdrive.ntt-east.co.jp/articles/dr00064-001.html

土日以外で休むなら何曜日?

2月23日は「天皇誕生日」ということで休みだった。

令和になって2度目の「天皇誕生日」ではあるものの、いまだにピンときていない。
 
令和も3年になるというのに、まだ平成の残像のただなかにいるのだろうか。
 
さて、今回はキャッチーなタイトルをつけてみた。
タイトルに対する私の答えは、ずばり火曜日である。
 
 
今週はいつも以上に仕事の調子がよかったのだが、その理由が火曜日が休みだったことにあるのではないかと考えている。
 
火曜日が休みになることが及ぼす効果は以下のとおりである。
 
1、日曜夜の圧倒的憂鬱をおさえることができる。
 
日曜夕方の防災無線が鳴るあたりから、気分がどっと落ち込む。
こういう時間は運動をし、ひと汗流すのが最近のルーティンになっているのだが、その後夕飯を食べ、風呂に入り、テレビをつけだらだらと時間を過ごし、「音のソノリティ」 *1を見るあたりで、絶望で心臓が潰されそうになる。  「音のソノリティ」は、そこでしか聞くことができない音という切り口でいろいろな世界を紹介するのだが、その繊細な音が休みの終わりを告げる合図のように聞こえ、明日の仕事を迎える覚悟を固めさせられるのである。
 
この症状は、休日と平日の区別があいまいだった大学時代を除き必ず待ち受けていた。
 
日曜の夜に付きまとうしんどさは、静と動の切り替えに対する負担のようにも思う。
 
私は休日徹底的に休んでしまうため、脳が静モードに入る。
その静モードの状態から、翌日からの五日間を乗り越えるべく、動モードに切り替えなければならない。
マニュアル車でも、静止している状態からスタートするとき、一番力の強い一速にギアを入れるが、その力を翌日から否応なしに発揮しなければならないという現実に対する心労が日曜の夜を直撃するわけだ。
 
火曜に休みを入れることで、こうした憂鬱をおさえることができる。
たった一日だけ走るためのエネルギーを発揮すればこと足りると思えれば、そこまでの落ち込みはない。
 
また、日曜の夜も気持ちよく過ごすことができ、貴重な休みのクオリティーをあげることに資する。
 
 
2、月曜日のパフォーマンスを向上させられる。
 
私にとって月曜日は、最も動きが悪い曜日だ。
昨晩の「音のソノリティ」をみて、間もなくやってくる月曜を受け止めようと覚悟したはいいものの、そう簡単に切り替えはできない。
この先、五日間働き続けなければならない憂鬱を背負いながら仕事をするのが月曜日の常である。
特に朝は、25メートルプールを息継ぎなしで泳ぎきるという課題を課せられ、スタート前の深呼吸をしているかのような感覚だ。
こういうことを書いてると、「月曜日なのに機嫌悪いよどうするよ?」という10年前のアニメの曲を思い出す。
これはその過ごし方を自らの一存で決めることができ、いかなる振る舞いも責任が取れる範囲内で許容される休日とは一転し、組織の部品として適合するよう自らの機嫌もコントロールすることが求められる5日間が始まったにもかかわらず、初っ端からそのコントロールに失敗する様を咎めているものとも解釈できる。
 
こうした状況からスタートする月曜日は、結果的に仕事の成果も他の曜日と比較すると低いものになりがちで、大掛かりな会議なども月曜に設定することは避けている。*2
 
さて、こんな月曜の憂鬱も、明日休みという希望があれば、おさえられる。
個人的に仕事のノリが一番いいのは金曜なのだが、金曜に近い力を月曜に発揮することができる。
 
3,土日以外に起きる時間を気にしなくていい日をつくれる
 
きわめて個人的な事情である。
私の住む地域では、火曜日以外の平日がゴミ収集日となっており、曜日によって捨てられるゴミの種別が決まっている。
ゴミ出しは朝に限られており*3火曜日以外の平日に休みを入れてしまうと、ゴミ出しのために朝起きなければならない。
その点火曜日に休みを入れれば、月曜の夜には翌朝きちんと起きてゴミ出しをしなければならないというプレッシャーを感じることなく眠りにつくことができ、さらには翌朝もずっと眠ってられる。最高だ。
 
理由としては以上である。
 
どこに休みを設定するかは、仕事はじめの憂鬱を軽減するかに主眼が置かれているように思った。
と、ここまで仕事がいかに憂鬱かに力点を置きすぎた感はあるが、いざ仕事が始まってしまえばなんのことはない。あっという間に5日は過ぎていく。
先に少し触れたが、金曜はとにかく仕事がはかどる。
翌日休みという希望があることもその一因なのだが、動モードが爆走し、タスクをこなす自分に酔いはじめ、土日も仕事をしたい!なんて錯覚を起こすこともある。
 
なお、次の「国民の祝日」3月22日の「春分の日」、土曜日のため残念ながら振替休日はない。
振替休日の考え方がよく分かってなかったため、「国民の祝日に関する法律」をみたところ、以下の通り定められている。*4
第三条 「国民の祝日」は、休日とする。
 「国民の祝日」が日曜日に当たるときは、その日後においてその日に最も近い「国民の祝日」でない日を休日とする。
 その前日及び翌日が「国民の祝日」である日(「国民の祝日」でない日に限る。)は、休日とする。
 
 
残念なことだが、決まっているものはしょうがない。
振替休日のロジックが分かったところで、残り1か月の今年度を乗り切ることとしよう。

*1:サザエさん症候群」ならぬ、「音のソノリティ症候群」という言葉もあった。

*2:この感覚は私だけではないのだろうか、月曜の会議室は比較的と空いていることが多い。

*3:夜中にゴミ収集を行う自治体もあるようだ。うらやましい。

www.asahi.com

*4:

国民の祝日に関する法律 | e-Gov法令検索

コロナ禍の自己管理(私生活面)

お題「#この1年の変化

 

前回、仕事面での「コロナ禍の自己管理」*1をまとめたが、今回は私生活面でまとめたい。

 

新型コロナウイルス感染症によって、私生活もがらりと変わった。

いや、より正確に言えば、傍から見た生活はそんなに変わっていないのだが、内面には大きな影響を与えるものとなった。

 

コロナ禍では、外出自粛が求められた。

これが、私が学生時代に陥っていたネット依存*2という負の特性を呼び覚まし、また際限なく助長させるものとなった

当時の依存はまるで底なし沼のごとく、あがけばあがくほど深みにはまっていく類のもので、いわゆる人の三大欲求とされる食欲、睡眠浴、性欲に並ぶ4つ目の欲求として、ネット欲が追加されたかのような、 脳にダイレクトにきいてくる厄介なものだった。

もはや自己管理能力でどうこうできない領域のようにも思え、社会人になることに不安も感じていたが、まあなんとかなった。

 

いまははてなブログに執筆することで、チャットからは少し距離をとれている。

ネット依存には変わりはないのだが、まだ自らの思いを整理し文章にまとめる作業がある点、チャットに依存するよりは幾分かましだろう。

 

さて、外出自粛によりネット依存が悪化することは想像に難くないだろうが、そのメカニズムを改めて追いなおしたい。

 

新型コロナウイルス感染症が流行する前までは、休日に快晴にもかかわらず、外出せずネットばかりしていると、うっすら罪悪感を抱いていた。

この罪悪感は、過去の異常なネット依存の記憶を思い起こさせるちくちくしたもので、外で活動できる状況であるにもかかわらず、いかなる天候でも関係なくできるネットであえて一日を潰すことにもったいなさを感じるところから生じている。

そんな罪悪感があったから、土日のいずれかは外に出るようにはしていた。

多くは、この罪悪感と翌日の仕事の存在をよりリアルに感じ始める日曜の夕方頃に外出していたが、どこか「休日も外出し一日を満喫すべき」という価値観に屈し、本意ではない外出を迫られているというような受け止めをしていた

 

去年の4月に発出された緊急事態宣言は、そうした罪悪感を吹っ飛ばすものとなった。

私の場合、外出自粛の要請を自らの行動規範として過剰に受け取り、それを都合よく引きこもり、ネット依存を正当化するものに転嫁していたようにおもう。

ネットにはこれまで以上にのめりこみ、あっというまに学生時代に陥ったネット依存と似たような状態となった。

当然楽しいからネットをするわけだが、一方でネットに接している時間が長ければ長いほど、気に入らない発言に出会う場面も多くなる。

そんな状況で、SNSやチャットでの他人の発言にいちいちイライラしたりすることが増えてしまった。

チャットサイトで生じるいざこざについて、小さな鳥かごで小競り合いをしているかのような虚しさを感じ、同時にこれまでの罪悪感からではなく、純粋な外出・運動欲求が自らのうちからむくむくと顔を出し始めているのを感じた。

無論、外出自粛は「自粛」にとどめられており、物理的には鳥かごの扉は開かれている。

しかし、外出を自らのうちで積極的に禁忌としたことと引き換えに、ネットにのめり込むことを肯定していた自分にとって、ここで鳥かごからの脱出をはかるのは、自己矛盾に感じられ、簡単に外出するわけにはいかなかった。*3また、ネット漬けによる疲れから外に出るエネルギーもなく、結局パソコンの前に座ってしまうという負のスパイラルに陥った。

 

コロナ前、休日に窓越しの雲一つない青空を見ても「休日も外出し一日を満喫すべき」という外圧を盛り立てるものとくさしつつ抱いていた罪悪感が、前述の経験を経て、むしろ、自らのうちから湧き上がってくる外出・運動欲求の萌芽だったのではないかと思うに至った。

 

と、ここまでいかにネット依存という負の面ばかりを書いてきたが、こうした状況をなんとかせねばならないという意識も働き、それが新たな習慣を生み出すものとなった。

新たな習慣とは筋トレである。

きっかけは以下の書籍だ。

筋トレが最強のソリューションである マッチョ社長が教える究極の悩み解決法 | Testosterone(テストステロン) |本 | 通販 | Amazon

 

生きていてぶつかる課題に対し、いずれも「とにかく筋トレしろ」という結論に結び付けられるのだが、筋トレの効能が著者の経験則のみならず科学的にも説明されており、筋トレをする気にさせられる本だった。

 

上記の本で筋トレ意欲を書き立てられ、運動欲求そのものにこたえるため、また目と脳を酷使するネットから距離をとるため、さらに習慣を継続することで苦手な自己管理ができている実感を獲得するため、緊急事態宣言開けにジムに通うようになった。

 

こうした己の外出・運動欲求に気づくこと、さらにその欲求にこたえていくという発想は、コロナ禍でなければ持てなかったように思う。

 

運動といっても週1~2のペースで筋トレをし、走るという単純なものだが、これはメンタル的にもいい方向に働いた。体を動かす習慣があまりなく、汗をかくことがなかったから、汗をかくことがこれほどまでに爽快なものなのかと改めて実感した

自己管理に苦手意識を持っており、あらゆるものごとが三日坊主に終わってしまう私ではあるが、今のところ運動は続けられており、成長の実感も得ることができた。

今後も最低は週一は筋トレにいそしみたいところだ。

*1:

f-boby.hatenablog.com

*2:主にチャットサイトへの依存

*3:今でこそネット依存という言葉を使っているが、このときは依存ではなく、どちらかというと望んでネットをしているという認識で、その認識を崩すことに抵抗があった。