【ネタバレ注意・読書感想文】僕は模造人間

久しぶりに小説を読んでみた。
 
 
自意識をこじらせて周りから奇行とみられるような行動をし続ける少年の青春小説である。
30年以上前にかかれた本であるものの、独りよがりな理屈をこねまわす主人公からの溢れんばかりの自意識の垂れ流しの中に、胸を打たれる表現が散見されたので、まとめておきたい。
 
僕は僕であったためしはなく、常に他人であった。名前はもちろん、手も足も、舌も声も、他人のものであった。それが一時的にでも自分のものだと感じるためには…ともかく普通でない目に合わなければならなかった。(16ページ)
 
主人公の亜久間一人は、幼少の頃から、亜久間一人を「僕」と区別された他者とみなし、亜久間一人の行動を常に離れた視点で見ていた。
こうした心性では、ありのままの自分というものはあり得ず、亜久間一人のあらゆる行動が「僕」にとっての観察対象となってしまう。「本当の自分とは何か」とは、ティーンエイジャーの抱くありがちな問いではあるが、そうした問いを早々に捨て去り、亜久間一人の行動を受けての周りの反応に対しても、自らの主体的な演技が成就したか否かで価値判断を下しているように見受けられる。
 
たとえば、
ぼくはこちらの意志に関わりなく味わわされる羞恥には耐え難かった。(18ページ)
としながらも、そのあとで、

羞恥に自分の意思が混じっていれば、時に栄光に転化し得るのである。(19ページ)

とある。
 
羞恥は、他者から期待される役割を内面化し、その役割を演じきれないときに生じる感情だ。「僕」は、他者からの期待を内面化してはいるわけではないのだが、意図しない羞恥は、突如現れた暴漢に舞台を乗っ取られ、役者としての主体性が傷つけられたかのような屈辱として襲い掛かる。一方、意図的な行動であればそれは演技の延長線上にあるもので、たとえそれが一般に羞恥を催すようなものであっても、僕を主体に他者に何らかの感情を想起させることができたという実感は残る。その実感に、舞台をコントロールしているかのような栄光を感じるのだろう。
 
またこの小説で特徴的なのは、とにかく主人公が性欲に忠実なことだ。
模造人間でありながら、性欲だけは思春期のオスとしての役割を過剰に全うしている。おそらく「僕」と亜久間一人は性欲という糸でくくりつけられた存在であって、欲の発散をすることに対しては、互いが意思をもって手を取り合っているのだが、その発散の仕方に規範性を感じてしまう「僕」の存在が、亜久間一人に倒錯した行動をとらせてしまう。
  
 
 ここで規範性とは、「こうあるべき」という観念の混じった出来合いのストーリーを意味している。例えば以下の文章で言えば青春がそれにあたる。
 
 誰しもが青春という安っぽい舞台(出来合いのものが多いが)で悩み苦しみ、恥じらいや欲求不満を思い入れたっぷりに演技する役者であるが、演技が命がけである分、また盲目的である分、ドラマチックになる。…(中略)…僕にもそれを楽しむ資格はあると思うが、何より演じる自分を茶化すことのほうに情熱が傾いてしまうものだから……(156ページ)
 
亜久間一人は、そこにどんな人間をも代入できてしまう「模造人間」ではあるのだが、この文章では、「僕」の存在が前に出てきている。
若者が熱狂する青春のあらゆる場面も、一般的な出来合いのストーリーが背景にあり、青春を謳歌することは、そのストーリーをなぞるに過ぎないことを意識した途端、すべてが茶番に思えてくる。そんな「僕」のモノの見方が、亜久間一人を全力で茶化す情熱をささげる原動力になっているのだが、この情熱自体が僕のアイデンティティーとして確立しており、それがさく裂しているような描写があちこちにみられる。
 
私自身の過去を振り返ると、こうしたストーリーに全力を捧げる青春ごっこに対する反発心は心の奥底にあったものの、その反発心に青春を謳歌できていないことに対する負け惜しみのような感情も交じっており、主人公ほど徹底した行動をとれなかったように思う。
後半「僕」の色は抜け、完全な模造人間となれたことを主人公は確信していく。
全体を通して、主人公の生きざまは不気味で痛々しいのだが、それでもどこか憧れるところがある。
舞台で演じきることも、下りることもできずもがいていた青春時代の私がこの小説に出会っていたら、少しはそのもがきも客観視出来て楽になれたんじゃないかと思う。

「くたばれ、正論」:レッドブルの広告に対する雑感

「くたばれ、正論」と題された広告が、1月11日の読売新聞の広告欄に掲載され、ネットで話題になっている。

引用すると以下の内容だ。  

くたばれ、正論

この世の行き過ぎた正しさが、君の美しいカドを丸く削ろうとする。正しすぎることからは、何も生まれない。常識を積み重ねても、所詮それは常識以外の何物でもないから。自分の感受性を守れ。自分の衝動を守れ。自分の中のバカを守れ。本能が面白いと感じる方へ動くんだ。まっすぐ、愚直に、大きくいこう。

成人の日に公開された広告でもあり、意図としては、世間の目を気にしすぎず、自分のやりたいことをやろうという、若者へのエールのように推察される。

この広告自体、くたばるべき対象として特定の集団を想定しているわけではなく*1、目くじらを立てて批判するのは、尾崎豊の「15の夜」を犯罪行為を助長するものとして叩くような、表面的で野暮な感受性ではないかとも思いつつ、個人的には響くものもあったので、考えをまとめておきたい。

「くたばれ、正論」に続く内容や、前述の意図自体はありきたりなもので、この広告をめぐり賛否がわかれている箇所は、「くたばれ、正論」という言葉であり、共感するかどうかは、「正論」という言葉をどう受け止めているかに大きく依存している。

まず、私は「正論」という言葉が嫌いだ。より正確に言えば、「正論」という言葉を多用する人に強い反感を持つ。それゆえ、広告のメッセージ性には陳腐さを感じつつも、タイトルには強い共感を抱いた。

 

この反感は何によるものか。

辞書上では、正論は「道理にかなった正しい意見や議論」*2とされている。

「道理にかなった」や「正しい」がどういったものかを考えると、その態様は一様ではなく、個人の主観的な信条によってくる部分が大きい。

もちろん普遍的に正しい観念もなくはないのだろうが、大半は自分にとっての一面的な正しさであって、その正しさを他者に求めたとき、他者の正しさと衝突が生じる可能性がある。その時、どこにすれ違いがあるのか丁寧に解きほぐしていくことが相互理解や妥協点の探り合いに繋がるように思うのだが、「正論」という言葉は、物事を正しいこととそうでないことにはっきり区別させる言葉で、そこに前置されるべき丁寧な考察過程をすっ飛ばして、正しさを主張するような傲慢さを感じる。

 

「正しい」とは何かに関連し、先日以下の本を読んだ。

www.amazon.co.jp

この本では、「正しい社会のありかた」をめぐる思想として、6つの思想*3が紹介されていた。

印象的だったのは、異なる思想であっても、その時代の課題に対応するべく、根拠に遡って結論を修正*4していることだ。

活動家として、特定利益を主張しなければならないのであればまた別だが、物事がめまぐるしく移り変わっていく時代において、目の前の個別具体の出来事に対応していくには、あらゆる評価軸を持ちつつ、場合によっては、自らのこれまでの主張の妥当性を検証していくことも必要だろう。安易な「正論」のラベリングは、 他者との意見交換はおろか、その検証の余地をも潰してしまうように思う。

また、「正論」という言葉で、自らの主張の絶対性を確信したとき、自分にとっての正しさを、他者に振りかざす時の暴力性にも無自覚になる。

とはいえ、「正論」を完全に拒絶するべきとも思わない。

自らの考えをまとめる過程で、それが「正論」足りうるかを絶えず考察しなければ、誰かの「正論」に対抗することもできないし、「正論」を欠き感情や本能だけでまわる世界は望まない。

「くたばれ」という言葉は過激ではあるが、「正論」というラベルありきで物事を語る傲慢さや暴力性へのアンチテーゼとして、いわば毒をもって毒を制す形で示されたのがこの広告ではないか。

自らの正しさを疑うことなくどこまでも推し進めてしまうことへの戒めとして、あえて「くたばれ」と釘をさすのであれば、評価したい。

そんなわけで、おそらく広告の意図するものとは全く別のポイントで、私は共感を覚えた。

*1:広告を批判する背景に、レッドブルの創業者の政治的信条等を指摘する声もみられたが、あえてそういった文脈には触れないでおく。

*2:デジタル大辞林より引用)

*3:紹介されていたのは、リベラリズムリバタリアニズム、コミュニたリアニズム、フェミニズム、コスモポリタニズム、ナショナリズムで、ロールズリベラリズムを起点にそれぞれの考えが整理されている。

*4:一例として、社会や国家の干渉を避け、個人の自由と権利を尊重する立場である「リバタリアニズム」において、福祉国家型の事後的な再分配を否定しつつも、源流が「古典的リベラリズム」にあることを踏まえ、人道主義的な観点から最小限度の生活保障を求める思想が紹介されている。 

「雪」をめぐる大人と子どもの分岐点

今週のお題「大人になったなと感じるとき」

年末年始の連休後、5連勤を経ての休日、近所を散歩した。

晴れてはいたが、風が強く、寒さがダウンジャケットを通して全身に突き刺さった。

日本海側では大雪らしい。

 

私の住む地域はそれほど雪が降らず、この冬はまだ雪に見舞われていない。

 

子どもの頃は、雪が好きだった。

雪が積もった日の朝、窓を開けると一面に広がる白銀の世界に非日常を感じ、それだけで心が躍った。

 

雪に対する非日常的なときめきは、大人になるにつれ後退していき、働いてからはほぼなくなっていた。

その理由は、主に次の2点にあり、いずれも大人と子供を隔てる要素に関係していると思う。

 

1点目は、大人になるにつれ、自らの行動を枠にはめるようになり、雪と遊びが結びつかなくなったことだ。

子どもの頃の雪に対するときめきは、非日常的な遊びへの期待と表裏一体だった。

日常生活と遊びを切り離すような発想はあまりなかった当時、人が集えば遊びが始まるようなことが多かった。

遊び自体も枠にはまらないものが多く、公園、マンション、県営住宅、グラウンド、あらゆる場所が遊び場で、そこに積もる雪も、遊びの可能性を広げる要素として歓迎していた。

雪だるま作り、雪合戦、かまくらづくりをはじめ、いろいろな形で雪と戯れた。

 

年を重ねるにつれ、日常生活と遊びを切り離すようになっていった。

人が集えば遊びが始まるというのは減っていき、遊ぶことを目的として人に会い、そのうえで遊ぶことが多くなっていった。

また、遊びのフィールドは限定的になり、枠の決まった遊び*1を楽しむことが増えていった。

枠の決まった遊びに、たまたま降った雪が入り込む余地はなかった。

 

2点目は、大人になって、雪がもたらす非日常に対応する責を担わされたことだ。

社会人になってから、雪が積もったら、決まって職場の駐車場の雪かきに追われるようになった。

雪かきだけでなく、凍結によるスリップを防ぐための凍結防止剤も撒くが、これがとにかく重く、体にこたえた。

大雪のたび、クソ寒い中の除雪作業に追われることを何度か経験し、雪は遊びの対象であることはおろか、日常生活を阻害しうるものとして、雪に対する思いも憂鬱なものに変わっていった。

 

大人になること、それはあらゆる行動を枠にあてはめ、その可能性を限定していくこと、そして誰かの手で維持されている日常に胡坐をかいていられる立場から、自らが当たり前の日常を維持するべき立場に移行していくことにあると思う。

 

そんなわけで、私の中で雪を見て素直にはしゃげるかどうかが、大人と子供の分岐の一つとなっている。

*1:学生時代はカラオケ、ビリヤード、ダーツ、釣り、麻雀などを楽しんでいた。

はじめての投稿

 ふとした瞬間に何かを文章にしたためたいという気持ちに見舞われる。目まぐるしく進む日々に飲み込まれないよう、思索にふけりたくなるときがある。そんな思いが臨界点に達した時、決まってブログを開設する。

 これまで、数回、ブログを開設しては三日坊主に終わるということを繰り返してきた。大抵年明け、年度明けの、気分がやたら高揚しているときに開設してきた。

 何かを継続することは難しい。

 このブログは、年明けの気合いに無理に乗っかろうとせず、気が向いた時に更新するという姿勢で向き合いたい。