「うっせぇわ」と「尾崎豊」の異同

「うっせぇわ」という曲が話題になっている。

 

https://www.youtube.com/watch?v=Qp3b-RXtz4w&feature=emb_logo

 

この曲をめぐって、賛否両論盛り上がっており、以下の記事読んだ。

 

「『うっせぇわ』は子どもに歌わせない」という親たちに伝えたいこと(島沢 優子) | FRaU

批判的な意見としては、次のものが指摘されている。

 

「子どもに宿題しなさいと言っても、うっせえ、うっせえと歌うばかりで言うことを聞かない」

「不快感と、重めの“中二病”を感じた」

「心の中でいきってて、可哀想」

  

小さなころから優等生として育ってきたが、大人になってからも当然のように求められる振る舞い、「不文律最低限のマナー」を押し付けられ、模範的であることを強要されることに対する不満が爆発する様が歌詞に込められている。

歌詞の後半になるにつれ、その不満がより強い言葉にのせて表現されており、最後は「どうだっていいぜ、問題はナシ」でしめられる。

全体を通して不満を先鋭化させ、感情をぶちまけているような印象だ。

「社会人にしては幼稚な歌詞」という批判もあり、歌詞を理屈でとらえたら批判に晒されるのも分かる。

確かに「うっせぇわ」の先にいかなる葛藤やコミュニケーションもなく、批判に対しても「どうだっていいぜ」で片づけられてしまう勢いが見受けられるこの歌詞はどこか幼稚ではあるが、一方で歌詞の言葉の汚さや幼稚さを大人が攻撃すればするほど、この歌の存在感も大きなものになっていく。

私自身は理屈ではこの歌詞にどちらかというと批判的な立場をとるが、ただただ不満をぶちまけたい、感情を発散させたいときなんかは響くものがあるようにも思う。

例えば、仕事で理不尽な仕打ちを受けたときに、家に帰って一人でストロングゼロを飲み、べろんべろんに酔っているときなんかに聞いたらいいかもしれない。

ところで、今日「この差って何ですか?」という番組で尾崎豊の特集を見た。

 

尾崎豊もその反社会的な歌詞から、よく批判に晒されている場面を見かけるが、「うっせぇわ」との異同をここで整理してみたい。

 

1、似ているところ

「うっせぇわ」においては、上司の一方的な規範の押し付けに強い抵抗感を抱き、言葉の暴力でもって愚痴り倒している。

一方尾崎豊については、ここで良くも悪くも有名な「15の夜」と「卒業」に触れたい。

いずれの曲も、学校という強い規範でがんじがらめにされた環境で、自由を求め、それを行動に起こした結果が「盗んだバイクで走りだす」や「夜の校舎窓ガラス壊して回った」につながっている。

押し付けられた規範に対する抵抗をうたっているところは共通している。

 

2、異なるところ

「うっせぇわ」は感情の発散にとどまっており、歌詞の後半にいくにつれてどんどん感情を爆発させていき、最後には思考することすら放棄している。

一方、尾崎豊の歌詞はもう少し複雑だ。

たとえば「15の夜」については、最後に「誰にも縛られたくないと逃げ出したこの夜に自由になれた気がした15の夜」としめられている。

この「なれた気がした」とうのがポイント*1で、「なれた」とは思えていないところに注目する必要がある。

また、「卒業」においても、学校から卒業することはできても、「これからは 何が俺を縛りつけるだろう あと何度自分自身 卒業すれば本当の自分に たどりつけるだろう」という歌詞に見られるように、卒業すれば自由になれるとは思っていない。

自由を束縛する規範が学校のみならずあらゆる場所に存在する、そんな規範の普遍性も感じ取りながらあがき続ける心情がここに示されているようにも思う。

そうした普遍性を見据えているかどうかに大きな違いがある。

 

私自身が大人の側になっていったせいか、どうしても新しいものをくさしがちになってしまうことが最近多い。そういう感性の老いにあらがうため、今回はあえて流行りの曲に触れてみた。

大人の側になった私が若者の代弁者的存在である尾崎豊の歌詞を持ち上げるのは、そこに普遍性を感じ取るからのようにも思うが、「この差って何ですか?」の中では高校の倫理の教科書に尾崎豊の歌詞がとりあげられているという話もでてきた。

そうすると、今の若年層にとっては尾崎豊が権威的なものにもとらえかねないだろうなとも思ったりもした。

*1:「この差って何ですか?」でも触れられていた。