「告白」と事実の物語化
今週のお題「告白します」
「告白」とは、「 秘密にしていたことや心の中で思っていたことを、ありのまま打ち明けること。また、その言葉。「罪を告白する」」*1とされている。
「罪を告白する」のほかにも「愛を告白する」、「過去を告白する」といった形で使われている言葉だが、いずれも語られる対象がありのままの思いであることがその要件となっている。
では、ありのままに打ち明けるとはどういうことか。
思うに、「事実」をそのまま語ろうとすることとは区別される。
というのも、何かを語るとき、私たちは「事実」の物語化を行っているからだ。
「事実」を「事実」として他者に認識させるためには、「事実」たらしめるだけの説得力が必要だ。「事実」そのものは過去の中に消え去っており、それが「事実」と認識されるためには、語られた「事実」が一貫性、整合性など具備した説得力のあるものでなければならない。
その説得力を持たせるための技巧が物語化であって、私が相手に何を伝えたいか、あるいはどう思われたいかというところから逆算して、「事実」の取捨選択や関連付けを行い、偶然性の連続である「事実」を必然性の伴った物語にしたためている。
これは語る相手がいなくとも同様で、何かを書き記した時、過去の自分の行動を物語化し、事実として固定化させるからこそ、過去に対して今の自分が何らかの評価を下せるものとなる。*2
このようなプロセスを経た「告白」は、うちに潜んでいたもやもやを排泄しカタルシス効果を得たり、物事を構造化することで何らかの教訓を得られるといった正の側面がある。さらに、技巧に優れていれば、文学作品として高い価値をもつものにもなりうる。
一方で、物語化のプロセスがナルシスティックな自意識とも容易にむすびつくことには留意しておく必要があるのではないかと思う。
先日読んだ「僕は模造人間」に以下の表現があった。
人生には転機があるという考え方は自分の過去を『英雄の生涯』なる物語に仕立てて陶酔することに多かれ少なかれ魅惑されている人の癖である。(「僕は模造人間」170ページ)
前述したように、事実の物語化は「転機」に限らず、過去を語ろうとするあらゆるプロセスに内在する。
その事実を解釈をする前提に、自らを正義のヒーロー、逆境を乗り越えたファイター、悲劇のヒロインなどなど、都合よくいろいろなものにしたてあげようとする心理があるように思う*3が、そういう心性には自覚的である必要がある*4
「告白」の正の効用を最大限発揮させつつ、物語化している己にも自覚的でありたい。