マウンテイングとは:「意識のリボン」を読んで

「意識のリボン」を読んだ。
 
 
8つの短編から成り、全体を通して、小説というよりエッセーのような印象を受けた。
多くの話は、主人公の見た世界を、主人公の視点でひたすら書き連ねられているというもの。
いずれの話も著者本人の体験をそのまま書き綴ったのではないかと思わせるくらいのリアルさがあった。
そのリアルさに加え、その言葉遣いが現代的、平易でありながら、心情の描写するための言葉を丁寧に紡ぎだしているように感じられた。
 
話の筋としてワクワクするようなものではないが、うちなる心情をどこまでも追求し、えぐり取った表現があちこちに散りばめられてはいる。その表現もどこか上品で、気分が落ちているときでも頭にするするとはいっていくように思った。
  
読んでいて印象的だったシーンは、1つ目の短編小説「岩盤浴にて」で、主人公が主婦二人組の会話を盗み聞きする場面だ。
 
二人組の様子を見ると、話しているのは片方だけで、もう一方はただ聞いているだけ。
話しの内容は、昔買った高額のコートをフリーマーケットで売ったら大幅に値段が落ちたことに対する愚痴だ。
 
それを聞きながら主人公は次のような心情を吐露する。
 
ダウト!愚痴に見せかけた自慢話。高かったコートを安く買いたたかれて腹が立った話をしているように見せかけて、高いコートが買えたり、香港に旅行へ行けたりするほど財力のあったかつての自分を自慢している。さらにコートを買った情報も付け加えて、現在も不自由してないのを暗示している。…聞き役の女性は言葉をかけているが、自慢された上うれにさらに慰めなきゃいけないなんて、大変な手間だ。おとなしく聞いている彼女は、相手の複雑な自慢方法にきづいているだろうか?(17ページ)

 

 
この場面で思い出したのは、少し前にはやった「マウンティング」*1という言葉だ。
 

辞書上では、「自分の方が相手よりも立場が上であること、また優位であることを示そうとする、行為や振る舞いのこと。特に、対人関係において、自分の優位性を示そうと自慢したり、相手を貶したりすることを指す。」*2とされている。

 
主人公は、マウンティングという言葉は使っていないのだが、話し手の行為にマウンティングの要素を感じ取っている。一方、話し手は本当に自慢する意図をもって話しているのか、あるいは聞き手は、その話を自慢話と受け止めているのかはここではわからない。
ある行為をマウンテイングととらえるかは人によって異なるところだ。
 
感覚的には、露骨な自他ともに認める自慢話より、一見すると自慢話ではないものの、複雑で暗示的なマウントをとられたほうが、より胸がざわつく。
 
その理由は、次の2点にあるように思う。
 
1点目は、己の弱点を歪んた形で自覚させられることにある。
前述したように、ある行為をマウンティングととらえるかは人によって異なるところだが、マウンティングは得てして相手から、その意図が不明確な形で発されるものだ。
つまり、自らのフィルターを通してその行為がマウンティングと解釈されることになるのだが、フィルター自体に自らの劣等感やコンプレックスが渦巻いており、ある行為をマウンティングととらえることが、己の弱みが刺激されることにつながる。
その刺激は、相手のマウンティングが正当なものであればあるほど、強烈なものとなるだろう。
 
2点目は、マウンティングを行う相手に対する嫌悪だ。
その嫌悪の二重の構造を持っている。
一般に優位性をひけらかすことは卑しい。
その卑しさを自覚している一方で、優位にたたなければならない自己が浮かび上がってきたとき、遠回しの自慢という行動につながる。
その行動は、優位性をひけらかすことの卑しさもさることながら、卑しさを正面から受け止めることもせずに優位性だけ獲得しようという狡猾さが垣間見え、卑しさと狡猾さの双方が大きな嫌悪につながっていくように思われる。
また、主人公の描写にもあるが、一見自虐的な発言であるがゆえに、会話の表面だけをみるとマウントをとられている側のフォローを要求されているようで、どこまでおぜん立てしなきゃいけないんだととにかく頭にきてしまうだろう。
 
動物のマウンティングは、馬乗りになる形ではっきりと優位性を示す。その点、卑しさを自覚することから逃げた遠回しのマウンティングは、どこか人間らしさを感じるところではあるのだが、あえてそこに、動物に対して使用する語彙をあてはめるセンスのよさが、流行語として流行った理由なのだろうなと思った。

*1:2014年の流行語大賞らしい。

*2:weblio辞書より引用