「雪」をめぐる大人と子どもの分岐点

今週のお題「大人になったなと感じるとき」

年末年始の連休後、5連勤を経ての休日、近所を散歩した。

晴れてはいたが、風が強く、寒さがダウンジャケットを通して全身に突き刺さった。

日本海側では大雪らしい。

 

私の住む地域はそれほど雪が降らず、この冬はまだ雪に見舞われていない。

 

子どもの頃は、雪が好きだった。

雪が積もった日の朝、窓を開けると一面に広がる白銀の世界に非日常を感じ、それだけで心が躍った。

 

雪に対する非日常的なときめきは、大人になるにつれ後退していき、働いてからはほぼなくなっていた。

その理由は、主に次の2点にあり、いずれも大人と子供を隔てる要素に関係していると思う。

 

1点目は、大人になるにつれ、自らの行動を枠にはめるようになり、雪と遊びが結びつかなくなったことだ。

子どもの頃の雪に対するときめきは、非日常的な遊びへの期待と表裏一体だった。

日常生活と遊びを切り離すような発想はあまりなかった当時、人が集えば遊びが始まるようなことが多かった。

遊び自体も枠にはまらないものが多く、公園、マンション、県営住宅、グラウンド、あらゆる場所が遊び場で、そこに積もる雪も、遊びの可能性を広げる要素として歓迎していた。

雪だるま作り、雪合戦、かまくらづくりをはじめ、いろいろな形で雪と戯れた。

 

年を重ねるにつれ、日常生活と遊びを切り離すようになっていった。

人が集えば遊びが始まるというのは減っていき、遊ぶことを目的として人に会い、そのうえで遊ぶことが多くなっていった。

また、遊びのフィールドは限定的になり、枠の決まった遊び*1を楽しむことが増えていった。

枠の決まった遊びに、たまたま降った雪が入り込む余地はなかった。

 

2点目は、大人になって、雪がもたらす非日常に対応する責を担わされたことだ。

社会人になってから、雪が積もったら、決まって職場の駐車場の雪かきに追われるようになった。

雪かきだけでなく、凍結によるスリップを防ぐための凍結防止剤も撒くが、これがとにかく重く、体にこたえた。

大雪のたび、クソ寒い中の除雪作業に追われることを何度か経験し、雪は遊びの対象であることはおろか、日常生活を阻害しうるものとして、雪に対する思いも憂鬱なものに変わっていった。

 

大人になること、それはあらゆる行動を枠にあてはめ、その可能性を限定していくこと、そして誰かの手で維持されている日常に胡坐をかいていられる立場から、自らが当たり前の日常を維持するべき立場に移行していくことにあると思う。

 

そんなわけで、私の中で雪を見て素直にはしゃげるかどうかが、大人と子供の分岐の一つとなっている。

*1:学生時代はカラオケ、ビリヤード、ダーツ、釣り、麻雀などを楽しんでいた。